
Ⅰ. ガラテヤ書6章の背景と律法主義の問題
ガラテヤ書6章は、使徒パウロがガラテヤ教会に宛てた手紙の最終部分にあたり、この手紙を通してパウロは律法主義者たちの教えに揺さぶられている信徒たちに「ただキリストの十字架」という福音の核心的真理を再確認させようとしています。ガラテヤ書は初代教会時代において、福音と律法が互いにどのように調和すべきか、あるいは福音が律法のくびきからどのように私たちを解放するかを深く取り扱っている書簡です。特に6章に至るまで、パウロは割礼問題や律法遵守による救いの誤りについて執拗に論破してきました。これによって私たちはイエス・キリストを信じることによって義と認められるという真理、すなわちただ恵みによって救いに至るという福音の中心を教えられます。
張ダビデ牧師はガラテヤ書6章の意味を深く探りながら、なぜパウロが最後の章で「具体的な愛の実践」と「物質的な分かち合い」に言及して手紙を締めくくるのか、その意義を詳しく解説しています。ガラテヤ地方には、パウロが伝えた福音を変質させようとする者たちが入り込み、「割礼こそが救いに不可欠な要素だ」と主張していました。彼らは福音だけでは十分でないと考え、救いをより「確実に」得るためには、ユダヤ人の伝統的な儀式である割礼が必要だと喧伝していたのです。さらに彼らは、割礼だけでなく、すべての律法を守ってこそ救いが完成するとまで拡大解釈しようとしました。しかしパウロは、それこそが「ほかの福音」であると強く批判します。福音はただイエス・キリストの十字架だけで完全であり、救いに割礼や律法のいかなる規定も付け加えてはならない、もし少しでも「付け足し」が必要だというなら、結局「十字架の力は不十分だ」という結論になってしまうからです。
ガラテヤ書全体の流れを見ると、1章から5章にかけて「恵みによって救われる」という福音の基本真理をパウロが論証し、5章後半では御霊(聖霊)のもとで自由に生きる生活を語ります。そして6章に入ると、パウロはこの御霊による生き方を具体的に示しつつ、「互いに重荷を負い合うこと、罪を犯した人を柔和な心で正してあげること」などを通して教会の共同体的な愛を回復せよと勧めます。その愛は抽象的なスローガンではなく、実際に「物質を分かち合う行為」までも含むものです。そこでガラテヤ書6章6節以下でパウロは「御言葉の教えを受ける者は、御言葉を教える者とあらゆる良いものを分かち合いなさい」と強調しますが、これは教会の中で御言葉の奉仕を担う人々の必要を満たし、彼らと共に分かち合うことが大切であると教える箇所でもあります。
張ダビデ牧師は、このような文脈を踏まえて「愛の第一歩は赦しと寛容、そして他の人の重荷を共に負うことであり、その次には具体的に財政を分かち合い、物質をもって助けることによってその愛をさらに完全に表すべきだ」と強調します。特にガラテヤ書6章7節「人は種を蒔いた通りに刈り取りもする」という御言葉は、「広い意味ではすべての善行や悪行もいずれ実を結ぶ」という原理として解釈することもできますが、直前の箇所で「御言葉の教えを与えてくれる者を物質的にも支える」という流れが続いていることを考えると、パウロがここで念頭に置いているのは、かなりの部分「物質的な種まきとその結実」であることが分かります。
だからといって単純に「種を蒔けばもっと大きな物質的祝福を受け取れる」というような御利益主義に陥ることは、パウロがまったく意図していないことです。パウロが「富」を語るとき、常に大前提としていることが二つあります。一つは、キリスト者の共同体が互いに愛をもって仕え合い、貧しい者を顧みることが「福音を実際に生きる姿」であるという点、もう一つは「たとえ思いきり与えても決して欠乏に陥ることのない恵み」が神にあるという確信です。コリント人への第二の手紙9章でも「神は蒔く種と食べるパンを与えてくださる」とありますが、これは「今食べる分だけでなく、未来の種まきに必要なものまでも主が責任をもって与えてくださる」という信仰に基づき、惜しみなく分かち合えという勧めでした。ガラテヤ書6章9節の「善を行うにあたって気落ちせずにいよう。時が来れば刈り取ることになるからだ」という言葉も、まさにそのような文脈から出たものです。神の時に必ず刈り取らせてくださると信じて「善を行うことに疲れ果てないように」と励ましているのです。
しかし、こうして物質的な分かち合いまでも強調するパウロの姿勢を見て、教会の中には「お金の話が多すぎる」とか「与えるのが負担だ」といった誤解を生む可能性があることも、パウロは念頭に置いています。そこで6章7節前半では「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません」と述べています。これは「神が施しを求めていらっしゃるわけではない」という点をはっきりと思い起こさせると同時に、「私たちが物質を分かち合うとき、強制や渋々ではなく、真の愛と感謝の思いをもって行いなさい」という意味にも理解できます。
結局、ガラテヤ書6章の最後の勧めは、福音と御霊の実が「具体的な愛の実践」として表されるべきことを強調しています。割礼派のように外面的な律法条項を守らなければ「本物のクリスチャン」にはなれないという誤った主張をする者たちとは違い、パウロは「十字架によって罪から自由にされた者たちは、実際に互いを助け合い、分かち合う生活を通して福音の力を示すべきだ」と教えているのです。これこそが、ガラテヤ書6章10節「それゆえ、機会のあるたびにすべての人に善を行いましょう。特に信仰の家族の人たちに」ということばが強調する核心的な精神です。まずは教会の中でお互いを見つめ合い、貧しい者が取り残されないように物質を分かち合い、その愛が教会の外の世界へも流れ出していくようにするのです。張ダビデ牧師は、このような御言葉を非常に具体的に解き明かしながら、ガラテヤ書6章を「教会の内外に向かう実践的な福音」という文脈でまとめあげます。
そしてガラテヤ書は6章10節で事実上本文が締めくくられ、11節から手紙の結論部に入ります。パウロは「どんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いているかを見るがよい」と述べていますが、これはローマ書など他の書簡で代筆を頼んだのとは違い、ガラテヤ書ではパウロ自身が直接手紙を書いた証拠、または目の病気(眼病)があったため、大きな文字でしか書けなかった背景を示唆しているともいわれます。いずれにせよ、パウロがそれほどまでにガラテヤ教会に伝えたいメッセージが重要だと感じており、最後の最後においても「依然として律法主義を主張する者たち」の誤りを改めて指摘し、ガラテヤの信徒たちが彼らの偽りの教えに二度と揺さぶられないよう強く訴えているのです。
Ⅱ. 具体的な愛の実践と物質的な助け
パウロがガラテヤ書6章で「愛」と「分かち合い」を言及する方法は、非常に現実的で実践的です。コリント人への第一の手紙13章でパウロが「愛は寛容であり、愛は親切であり…」と愛の属性を説明したのに対し、ガラテヤ書6章では「愛が共同体の中で実際にどのように具現されるべきか」が例示されています。張ダビデ牧師はこれを「都市中心の宣教に慣れていたパウロが、世の中で福音を生きる具体的モデルを提示したもの」と解釈します。ガラテヤ教会の信徒たちは福音を受け入れて恵みによって新生したものの、律法主義者たちの巧妙な教えに揺さぶられ、「再び律法的な生活様式に戻るべきか」というジレンマに陥っていました。この状況でパウロは「あなたがたが御霊によって生きるなら、その実(み)である愛を結ばなければならない。その愛の最初の行き着く先は、互いの重荷を負うこと、実際に助け合うことにまで及ぶ。割礼の有無や律法条項を守っているかどうかではなく、互いを物質的にも顧み、真の共同体的愛を行うことこそが真の福音の実践なのだ」と語っているのです。
特に6章6節「御言葉の教えを受ける者は、御言葉を教える者とあらゆる良いものを分かち合いなさい」という節は、初代教会が目指していたコイノニア(koinonia)の姿をうかがわせる代表的例といえます。初代教会は使徒の働き2章や4章にあるように、財産や所有物を互いに共有し、誰も困窮しないように互いを助け合う共同体の姿を示しました。とはいえ、すべての教会が完全にそれを実践していたわけではなく、パウロはどの教会でもこの部分を常に勧め、教えていかなければなりませんでした。ガラテヤ教会でも「御言葉を教える者」が生活を脅かされるほど献身しているのに、それを知らん顔したり、「説教者や教師にわざわざ物質的報酬を与える必要があるのか」という態度をとる可能性がありました。そこでパウロは「御言葉の奉仕に身を捧げている教師や宣教者、牧会者を放置せず、あらゆる良いものを共に分かち合いなさい」と教え諭しているのです。
張ダビデ牧師は、この原則は今日の教会内でも有効だと強調します。教会で御言葉を教える者、例えば牧師や教師、伝道師、宣教師などが物質的に困窮しているのに、信徒がそれを黙殺するのは決して共同体的愛とはいえません。たとえ「お金の話をするのは霊的ではない」と考える人がいても、聖書は決して物質の問題を表面的な領域とはみなしません。むしろ財産や富は重要な「霊的試金石」であり、キリスト者の成熟を示す大切な手段でもあるのです。だからこそパウロはコリント人への第二の手紙でも「少なく蒔く者は少なく刈り取り、多く蒔く者は多く刈り取る」と述べ、喜びをもって献げ、善行を実践するよう勧めます。同様にガラテヤ書6章7節「人は種を蒔いた通りに刈り取る」という言葉も、愛が行動として、特に物質として蒔かれるとき、その結果として美しい実を結ぶという霊的真理を改めて想起させるものです。
もちろん、この原理を悪用して「種を蒔けばすぐに何倍にもなって返ってくる」という行き過ぎた繁栄神学を警戒すべきことは言うまでもありません。パウロが意図したのは、「善行が決して無駄にはならず、神の時に必ず素晴らしい実を結ぶ」という原理です。それが必ずしも物質的形態だけで返ってくるという意味ではなく、霊的な面や共同体の益、さらには神の摂理のうちに豊かに刈り取ることになるという意味です。ガラテヤ書6章8節「自分の肉に蒔く者は肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は御霊から永遠の命を刈り取る」とあるように、利己的欲望に振り回されて生きるなら、やがて滅びゆく肉的な結果に至るが、御霊にあって他者を愛し、善を行って種を蒔くなら、永遠の価値と実りを得ることになるのだと対比しているのです。
張ダビデ牧師は、ガラテヤ書6章9~10節の「善を行うのに飽きてはならない、時が来れば刈り取るのだから、機会のあるたびにすべての人に善を行いなさい。特に信仰の家族には」という勧めを通して、教会が進むべき宣教的方向性と倫理的土台を探ります。善行を継続するのは容易ではありません。利他的な献身や分かち合いを続けるうちに、何度も疲れたり失望したりする時がやってくるからです。実際に助けられた人々が心から感謝してくれない場合もあるでしょうし、悪用する人もいるかもしれません。しかしパウロは「気落ちせずにいなさい。私たちが行った善は決して無駄にならず、神のとき(カイロス)に必ず刈り取るようになる」と励ましているのです。
これは教会が外の世界に対しても同様です。パウロは「すべての人に善を行いなさい。ただしまずは信仰の家族に」という優先順位を与えつつも、「すべての人に」という言葉を付け加え、教会の外にいる貧しい人々や困窮している人々も顧みるべきだと教えます。イエス様がマタイの福音書25章で「最も小さな者への行為が、そのまま私に対する行為である」と語られたように、キリストの体である教会は貧しい隣人や弱者を無視してはなりません。それこそが恵みによって救われた者が当然持つべき倫理であり、キリスト教共同体が世の中で光と塩の役割を果たす方法でもあるのです。
ガラテヤ書6章後半を見ると、14節に「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものが決してありません」というパウロの告白が出てきます。結局パウロの言いたい核心は「ただ十字架」であり、この十字架が私たちの生き方を根本から変え、私たちの存在の土台を一新するということです。律法主義者たちは割礼を行うことで自分たちの宗教的熱心を証明しようとし、あるいはそれを誇りにしようとしました。しかしパウロは「十字架こそが私たちの唯一の誇りである。キリストによって世は私に対して十字架につけられ、私も世に対してそうなのだ」と宣言します。これはすなわち「世の価値観や基準は、もはや私には何の効力も及ぼさない。私はただキリストの僕であり、あの方の焼き印(スティグマ)を自分の身に帯びて生きるのだ」というパウロの決意です。張ダビデ牧師はこの御言葉を通して、キリスト者として私たちがどのような生き方の姿勢を持つべきか、すなわち「世に対して死に、ただ神だけに仕える生き方」とはどんなものかを具体的に黙想するよう導きます。
一方、6章15節「割礼も無割礼も大事なことではなく、新しく造られた者であるかどうかだけが問題です」という御言葉は、外面的なしるしや律法遵守の有無ではなく、「新しい被造物(ニュー・クリエイション)であるかどうか」がカギだと改めて強調します。使徒の働き15章(エルサレム会議)でも既に結論づけられたように、福音はユダヤ人にも異邦人にも等しく救いをもたらす神の力であり、そこに「割礼」などを追加しなければならないという主張は、福音を重大に歪めるものなのです。パウロはそれを断固否定します。「この法則を守る人々と神のイスラエルの上に平安とあわれみとがあるように」(6:16)という部分も、「具体的な愛の実践と十字架中心の信仰」を守る人々に神の恵みと平安があるようにと祈る祝福の言葉として理解できます。
張ダビデ牧師が強調するのは、ガラテヤ書が「教義」から始まり、最終的には「実践」へと向かうという点です。福音が正しいか誤っているかを峻別する教義的宣言にとどまらず、実際に教会共同体の中で愛が実現され、さらに世の中で光と塩の役割を果たす姿として結実しなければならないのです。こうしてガラテヤ書6章は、ある種の「福音の結実」を最後に焦点として扱います。信仰共同体の内での仕え合い、困窮している隣人への奉仕、御言葉の奉仕者への物質的支援、これらすべての実践は、結局「御霊によって生きるなら御霊に従って進もう」(ガラ5:25)という勧めに対する具体的な答えなのです。
このことを通して教会が追求すべき方向性が再確認され、なによりこの手紙を受け取ったガラテヤ教会だけでなく、現代の教会も「私たちは本当に純粋な福音に立ち返っているだろうか。あるいは教会の内外に向かって福音の力を分かち合っているだろうか」と絶えず自問し点検するよう促されています。もはや律法は私たちを罪に定め、くびきを負わせることができません。私たちは自由を得ましたが、その自由は「愛によって互いに仕えるため」(ガラ5:13)に用いるべきです。そしてその愛はときに赦しや寛容となり、具体的支援にもつながっていくのです。これこそが教会共同体の喜びであり、教会が世の中に発信すべきメッセージでもあります。
これらすべてを取りまとめる張ダビデ牧師の説教は、「聖なる教義と最も現実的な物質領域とが決して分離しないことを示す知恵ある教え」として要約できます。どんなに優れた教理や信仰告白を持っていても、実際の生活の中で助けを必要とする隣人を無視するなら、それはもはや福音ではありません。福音は十字架を通して私たちを霊的に解放しただけでなく、隣人に対して愛をもって自分の財産や時間を喜んで捧げる、新しい可能性を開いてくれます。だからこそパウロはガラテヤ書の結論を「愛の行いと十字架中心性」として締めくくっているのです。
Ⅲ. 十字架中心の福音と信仰の完成
ガラテヤ書6章の最後の数節、特に6章17~18節で「私は自分の体にイエスの刻印を帯びている」という告白と「兄弟たちよ、私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたの霊と共にあるように。アーメン」で終わる場面は、パウロがガラテヤ教会の人々に抱く愛情とビジョンを凝縮して示しています。「これ以上、私を煩わせることはやめてほしい」という言葉は、ガラテヤ教会内で偽教師たちが広めた虚偽の主張によってパウロが精神的・霊的苦しみを受けてきた現実を吐露すると同時に、「もうこれ以上揺さぶられてはいけない」という力強い訴えでもあります。パウロが自ら伝えた福音こそが真理であり、ほかのいかなる「人間の教え」や「律法的伝統」も福音に付け加えられたり、福音に取って代わることはできないのだという最終宣言です。
パウロは「自分にはイエスの刻印(スティグマ)がある」と言います。この「スティグマ(stigma)」とは、奴隷や家畜に押す焼き印、あるいは兵士が所属を示すために入れる入れ墨などを指します。すなわち「私はキリストの所有となっている」という、最も積極的で明確なしるしなのです。実際にパウロは身体に何度もの鞭打ちや迫害の痕を負いながら生きていました。聖書によると、彼は宣教の途中で何度も牢につながれ、石打ちにされ、鞭打ちされるなど過酷な苦難を受けました。彼が福音を伝える中で受けた傷跡は、外面的な暴力の産物にすぎませんが、同時にそれはパウロが「イエスのしもべ」であり、「イエスに属する者」という焼き印でもあったのです。張ダビデ牧師はこれを「パウロの体には福音宣教者として生きてきた痕が刻まれ、まさにそれがパウロの霊的誇りであり、使徒としての証であった」と説明します。パウロが十字架以外は決して誇らないと言い切れた理由も、そこにあります。
ところが彼を苦しめる者たちは肉の姿、つまり「割礼」のような外面的しるしを誇りたがりました。しかしパウロにとっては、そうした外面的なしるしには何の価値もありませんでした。すでにガラテヤ書2章20節でも「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです」と述べ、6章14節でも「世は私に対して十字架につけられ、私も世に対して十字架につけられた」と告白していますが、それは決して誇張表現ではなく、パウロの実際の生き方を表す言葉でした。
ゆえにガラテヤ書の結末は「福音によって新しく生まれ変わった者」として、「十字架だけを誇り」、「愛の実践を通して教会を仕え、世を仕える生き方」をしなさいという結論へと集約されます。これがパウロがガラテヤ教会に伝えたかったすべての教えの総合であり、現代の教会にも重要なメッセージを与えています。張ダビデ牧師は、現代においても教会の中に律法主義が様々な形で紛れ込む可能性があると指摘します。人々はしばしば「これを守らねばならない、あの儀式を行わねばならない」といった形で福音に何かを付け足そうとするのです。しかし、福音は本質的に完全です。私たちの救いはイエス・キリストの十字架で十分なのです。そこに他の何かを付け加えた途端、それはもはや「ただ十字架」ではなく「十字架プラス何か」になり、その瞬間に福音は本来の純粋さを失い、歪められてしまいます。
一方で、ある人々は「私たちは律法から解放された」という事実を誤って解釈し、放縦や責任逃れに陥ることもあります。そのためパウロはガラテヤ書5章13節で「自由を肉の機会とせず、愛をもって互いに仕え合いなさい」と警告しました。「私たちは恵みのもとにあるから何をしてもいい」という思考は、決して真の福音の実りではありません。福音を本当に知る人は、十字架の愛に感謝し、感動して「隣人を愛する自発的献身と分かち合い」へと進んでいきます。その結果がガラテヤ書6章が示す「愛の重荷分かち合い」であり、御言葉を伝える者との「良いものの分かち合い」なのです。
結局、福音の核心である十字架と、その十字架がもたらす愛の実践とが結合するとき、教会は初めて全うな姿を持つようになります。張ダビデ牧師は「この全き姿に向かって絶えず走り続けることこそが教会の本質であり、ガラテヤ書が示した最も重要なメッセージでもある」とまとめます。実際、ガラテヤ書は比較的短い書簡でありながら、福音神学の精髄と教会共同体倫理の要をともに含んでいます。パウロの切実さと情熱が随所に感じられ、彼がどれほど教会を深く愛し、気遣っていたかが分かります。「兄弟たちよ、私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたの霊と共にあるように」(6:18)という最後のあいさつは、パウロがガラテヤ教会に向けた心からの祝福であり、この手紙を読む現代のすべてのキリスト者にも共通して届けられる祝福のメッセージでもあります。
この祝福は、単なる儀礼的なあいさつではなく、ガラテヤ書全体を結論づける中心的な一節といえます。福音に生きるとは、人間の資格や行いではなく「全的な神の恵み」によるものです。私たちにできることは、その恵みに感謝し、その恵みを隣人に伝える生き方をすることだけです。だからこそ「誰でもキリストのうちにあるならば、その人は新しい創造なのです」(Ⅱコリント5:17)という御言葉のように、キリスト者は新しいアイデンティティを与えられます。律法主義や行為主義で自分を証明する必要はありません。同時に「恵みによって救われたから何もしなくてもいい」という無責任な態度も許されません。本当の恵みを受けた人は、必ずその恵みを生活の場で実を結ぶはずだからです。教会の中で互いの重荷を負い合い、教会を越えて貧しい隣人にも善を行い、何よりも十字架だけを誇りとする姿勢――これこそがガラテヤ書が求める「信仰の行為」なのです。
張ダビデ牧師は、これを私たちの時代の教会の姿と結びつけて語ります。現代でも多くの教会が財政問題に直面しており、時に献金問題をめぐって葛藤が生じることがあります。ある教会では「説教者が献金を強調すると、人々が負担に思う」という懸念から、物質に言及すること自体を避ける場合もあるでしょう。しかしガラテヤ書6章におけるパウロの姿勢は、「むしろ教会の中で物質の問題を透明で聖書的に扱うことが大切だ」というものでした。もし本当に御言葉を伝える奉仕者が困窮しているなら、共同体が彼を助けるのは当然の務めであり、愛の実践です。そしてそれは決して「お金に執着している」のではなく、「愛をもって仕える行為」であり、「神の豊かな恵みの中で互いを助け合う」という視点が成立しなければなりません。このような姿勢こそが福音の力を世の中に示す道です。
また、教会のメンバー同士の間でも経済的に苦しむ人がいれば、彼らを放っておかず積極的に助け、立ち上がらせるべきです。ガラテヤ書6章10節「機会のあるたびにすべての人に善を行いましょう。特に信仰の家族には」という御言葉がまさにその原則を要約しています。教会の中で誰もが取り残されることなく、信仰の家族こそ神の家族であるのですから、その人々にまず心を注ぎ、具体的な助けを与えよということです。さらに教会の外の世界にも、私たちの支援を必要とする弱者や貧しい人、虐げられている人がいるならば、キリストの愛はそこへも注がれていくべきです。マタイ25章のイエス様のように、「渇いている者に水を一杯でも与えることは、そのまま主にする行為だ」という自覚こそが、教会を真の教会たらしめるのです。
こうしてガラテヤ書6章は「ただ十字架」という教義的中心を強調しつつ、同時に「具体的で現実的な愛の実践」を強く求めています。もし神の恵みによって罪から解放されたのであれば、その恵みが教会の中で、そして世の中で光を放つべきだとパウロは結論づけているのです。教会は、自分たちに注がれた神の愛を悟り、その愛を受けた者として互いに助け合い、さらに世を仕えるためにこそ、その自由を使うべきです。それは決して世の称賛を得るためでもなければ、「自分が道徳的に優れている」ことを誇示するためでもありません。むしろ「すでに受けている神の愛を少しでも分かち合い、それによって神に栄光を帰する生き方」をするのが教会本来の使命なのです。
結局パウロがガラテヤ書を通して示したメッセージは、律法のくびきや人間的な義から自由にされた人間は、愛によって発揮される自由を享受すべきだということに尽きます。「割礼」を掲げてもっともらしく宗教的儀式を押し付ける勢力が教会の中に入って混乱を起こすとき、教会は福音を歪め、生きた力を失いやすくなります。しかし十字架の真理をしっかりととらえ、恵みによって生きる姿が実際に実践されるなら、教会は健全な共同体となり、世の光となります。張ダビデ牧師は、その意味でガラテヤ書が今日でも依然として生きた御言葉であることを明確にします。
教会史を振り返ると、時代ごとに暗黙のうちに「律法主義」が入り込み、福音を変質させようとする企みが繰り返されてきました。中世の教会では免罪符の販売などの形で現れ、宗教改革期のルターは「ただ信仰・ただ恵み・ただ聖書」を掲げてこれに対抗しました。現代においても「目に見える成功」や「あらゆる規定の遵守」を福音以上に重視する風潮は確かに存在します。こうした文脈でガラテヤ書6章は、どの時代でも変わらない福音の核心を再び私たちに思い起こさせる非常に重要な章と言えます。そしてその核心は「十字架中心」であり、「恵みによって自由となった人々が互いに仕え、愛を実践すること」によって表されます。
最後に、ガラテヤ書6章18節でパウロは「兄弟たちよ、私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたの霊と共にあるように。アーメン」と言い締めくくります。パウロはどの書簡でも最後に主イエス・キリストの恵みを祈り求める祝福のあいさつを入れますが、これは「恵みによって始まった信仰は、最後の瞬間まで恵みによって支えられる」という簡潔かつ力強い神学的宣言です。ガラテヤ書の主題である「福音の自由」も、結局この恵みの現れであり、すべてのキリスト者の生涯を一貫して支える原動力もまた恵みです。私たちの弱さにもかかわらず、神は十字架を通して愛と赦しを与えてくださり、私たちを新しい被造物へと作り変えてくださいました。そのため私たちはいつまでもその恵みによって生かされるのです。そして、その恵みが私を通して隣人、さらには世の中へ流れていくとき、教会は世が到底まねのできない輝きを放ちます。なぜならそれは律法に定められた「割礼」ではなく、十字架を通して受け取った「恵み」が私たちを動かす原動力となるからです。それこそが、神がガラテヤ書全体を通して教えてくださった「真の自由への道」であり、「御霊の実り」が成熟していく道でもあります。
張ダビデ牧師はこれを重ねて強調し、福音の道は決して「自分一人だけが信仰を得て天国へ行く」個人的救いではなく、具体的な愛と分かち合いを通して「共同体と世の中」をも仕える「拡張的救い」の概念であることを思い起こさせます。ガラテヤ書6章の強調点は、パウロがそれほどまでに愛したガラテヤ教会がこの原則を実行に移すことによって、律法主義者たちのもたらす混乱を乗り越え、真の自由と喜びを享受する共同体となるようにすることでした。そしてこの御言葉は21世紀の教会にとっても変わらず有効なメッセージです。私たちが御霊の導きに従い、イエス・キリストの十字架以外に誇るものはないと悟り、それぞれの生活の中で「他者の重荷を負い、飢え渇く人や困窮する人を顧み、福音を教える人と良いものを分かち合い、ひいてはすべての人に対して善を行うことをあきらめない」教会共同体を築くとき、パウロの「私は自分の身にイエスの刻印を帯びている」という確信と熱意が私たちの内にも生き生きとよみがえってくるでしょう。そうして教会は時代を越えて絶えず福音の光を掲げ続け、律法主義や世俗主義の波が押し寄せようとも、最後まで主の望む美しく聖なる共同体へと成長し得るのです。
ガラテヤ書の最後の祝福をかみしめながら、結局は「キリストの恵みだけがすべてを可能にする」という事実に行き着きます。これこそがパウロの書簡全体を貫く宝のような結論であり、ガラテヤ書を貫くメッセージでもあります。そしてその恵みに対する信仰が、具体的な愛の行為として結実するとき、教会は真の自由を持つ共同体として神の国を証する尊い器となるのです。割礼や無割礼ではなく、新しく創造された存在として互いに仕え、十字架以外に誇るものはなく、イエスの刻印を誇りとし、ただ御霊の実を結んで善を行う者となる――この結論こそがガラテヤ書6章の真髄です。張ダビデ牧師がその核心を現代に合わせて説き明かしながら、今日の教会と信徒に向けて「欠け多き私たちであっても、与えられた恵みによって隣人を仕えていこう」という勧めを宣言することは、まさにパウロが伝えた福音の流れを正確に受け継ぐ道だと言えるでしょう。アーメン。