福音的奥秘——张大卫牧师


1. 正确理解苦盼望耀

当我们深入默想牧师所传讲的《歌罗西书》1章24节至29节,就会深刻体会到,使徒保罗对“苦难”的理解有多么重要。张大卫牧师在多次讲道和授课中都强调,苦难绝不是徒劳的,而是在神的救恩计划中必然伴随荣耀的过程。这并不是要单纯地肯定痛苦或美化苦难本身,而是要告诉我们,身为基督徒,在生活中遭遇的苦难,恰恰是显明我们内在“荣耀”的途径。特别是《歌罗西书》1章24节中使徒保罗的宣告——“现在我为你们受苦难,倒觉欢乐”——为信徒如何对待苦难提供了绝佳的指标。张大卫牧师指出,保罗对苦难的态度可用“喜乐”来概括,与世人的看法不同,当我们在信仰里面临极度的患难或逆境时,并不应灰心丧志或倒下,反而要从中发现苦难的意义,并时刻提醒自己:它最终是通往荣耀的途径。

张大卫牧师建议我们一并考察保罗在《哥林多后书》《罗马书》等多卷书信中对苦难的理解。例如,《罗马书》8章18节里提到:“我想,现在的苦楚若比起将来要显于我们的荣耀,就不足介意了”,这句话清楚地显示苦难与荣耀之间密不可分的关联。此外,在《哥林多后书》1章,使徒保罗坦言他藉由苦难更加深切地依靠神,并因此经历了来自神的安慰。张大卫牧师强调,保罗的告白不仅仅是使徒个人的经历,而是所有圣徒都适用的“信心法则”。也就是说,当苦难来临时,并非只有悲伤或沮丧,而是因我们相信苦难会通向荣耀的神秘安排,所以我们能够带着期待和盼望去忍耐。

保罗并没有亲自开拓并牧养歌罗西教会,但他仍告诉歌罗西的信徒,即便自己身处监牢,福音也丝毫没有停止。张大卫牧师引用《腓立比书》,指出保罗在最极端的境遇——监牢里,也依旧宣称“反倒叫福音兴旺”。由此可见,张大卫牧师再度提醒我们,纵使苦难来临,它也绝不可能阻断神的工作,反而会被神用来成就祂的目的。换言之,苦难乃是为了主的国度而受的苦,也是我们经过十字架,得以与主的复活一同有分的神圣道路。张大卫牧师多次提到,没有主耶稣所经历的十字架,就没有复活,也没有荣耀。对于基督徒而言,走这条十字架的路是理所当然的,而保罗在这里“为与基督一同受苦而欢喜”,正是整件事的核心。

接下来,《歌罗西书》1章24节的另一句——“为着基督的身体,就是为着教会,要在我肉身上补满基督患难的缺欠”——也暗示了保罗将自己的苦难视为为教会的建立与扩张而甘心“填补”的一部分。张大卫牧师解释,主耶稣在十字架上已成就完全的救恩,所以有人或许会对“剩下的苦难”感到疑惑,但这里所说的“剩下的苦难”,指的正是基督已经彻底打开救恩之门,而在这末后的时代,教会在传扬福音、走主道路时,仍需承担并参与的那份苦难。换句话说,主借着死亡与复活彻底敞开了救恩之门,但直到世界末了,教会在传福音与行走主的道路时,还会经历许多艰辛和难处。保罗把这些艰难都背负在自己身上,并因此生发喜乐。因为这正是“苦难转变为荣耀”的真实过程。张大卫牧师强调,信徒应当将保罗的生命与告白谨记在心。

所以,张大卫牧师所说的对苦难的真正理解,并不仅是简单的“忍耐”或“积极接受”,而是与具体的“荣耀”相联结的属灵洞见。他反复告诫我们,要深思苦难带来的影响、苦难所引导的方向,以及苦难带来的最终结果,将其看作开启荣耀之门的途径,同时透过苦难更加依赖神。为此,张大卫牧师经常提到《哥林多后书》第4章,保罗在那里说:“四面受敌,却不被困住;心里作难,却不至失望”,这充分展现了在信心之中对苦难的独到理解。若非坚信自己是属天的身份、坚信基督的灵与自己同在、坚信将来必有复活和永生国度的应许,便不可能有这样的气度。而这份信心绝非盲目空想,而是根植于十字架和复活这一具体事实之上的“真实盼望”。

同样,在《歌罗西书》1章25-27节,保罗再次提到救恩的奥秘,说这福音的奥秘是“历世历代所隐藏的”,如今显明给祂的圣徒。张大卫牧师强调,神的救恩计划自古以来在历史中隐藏,如今借着耶稣基督已清晰启示出来,这信息对所有信徒而言都是极大的确据与喜乐。正因为主耶稣的十字架与复活,彻底开启了救恩之门,于是外邦人也能得着这恩典,包括歌罗西教会和今天的普世教会。因此,这福音就成为我们最终的“荣耀盼望”。张大卫牧师指出,保罗将救恩称为“奥秘(mysterion)”的原因在于,它本是出人意料、在万古之先隐藏,如今才启示给世人;我们正生于这奥秘已然彰显的时代,应当满怀感恩和感动。

最后,张大卫牧师一再强调保罗的教导:“如今的苦楚绝不是终结,与神所预备的荣耀相比不过是至暂至轻”,这是所有信徒不可忘记的应许。若我们没有这种坚信苦难必然通向荣耀的态度,就难以在世上走这条狭窄十字架之路。但这条路最终引向复活、赏赐和荣耀。所以,保罗在《歌罗西书》1章24节所说的“以受苦为喜乐”才成为可能。张大卫牧师认为,这就是一个真基督徒应有的态度。


2. 神的救恩,福音的

张大卫牧师十分重视《歌罗西书》1章26至27节提到的“这道理就是历世历代所隐藏的奥秘,但如今向他的圣徒显明了”。这里所说的“奥秘”原文是希腊文的“mysterion”,也是“mystery”一词的来源。保罗宣告这奥秘“如今向他的圣徒显明了”,张大卫牧师解释说,这意味着自旧约时代起就不断被预言却尚未被完全领悟的神“拯救人类的计划”,已借着十字架与复活事件得以决定性地彰显。事实上,在《以弗所书》第3章也有相似的话:“这奥秘就是外邦人在基督耶稣里借着福音得以同为后嗣”,张大卫牧师沿着保罗的思路,强调神的救恩计划不仅局限于以色列,而是扩大到全人类。

尤其值得注意的是,张大卫牧师提到了《罗马书》9-11章,保罗说原本被拣选的以色列却因拒绝福音而使福音转向外邦,这恰恰成了福音扩展到万国万民的奇妙“契机”。保罗也在《罗马书》11章33节惊叹:“深哉,神丰富的智慧和知识!”张大卫牧师指出,这正是神的“奥秘”在历史中展开的具体例证——神很早就心怀拯救全人类的计划,并非只局限于某个民族或群体。这也彰显了福音最本质的“普世性”。

接着,在《歌罗西书》1章27节,使徒保罗将这个奥秘的核心定义为“基督在你们心里,成了有荣耀的盼望”。张大卫牧师对此尤为强调,“基督在你们心里”意味着福音的奥秘不只是一条外在的信息或知识,而是借着内住的圣灵,真实地在我们生命中运行的力量与关系。这种关系使信徒成为新人。在《罗马书》第8章,保罗也说:“人若没有基督的灵,就不属基督;基督若在你们心里,身体就因罪而死,灵却因义而活。”张大卫牧师不断阐明,内住的圣灵正是救恩的核心动力,这不仅仅是认罪祷告或接纳某些教义,而是在日常生活的方方面面都能让我们经历改变。

因此,“福音的奥秘”不止于“我的罪一次性被赦免,永远得救”这单一宣告而已,还包含与基督的亲密联合、圣灵的神圣内住,以及对于永生的盼望。张大卫牧师认为,这才是《歌罗西书》1章26-27节的要旨。保罗说“如今向他的圣徒显明了”时,指的并不只是犹太人或以色列人,而是包含外邦人在内的普世教会。正因如此,当初主要由外邦人组成的歌罗西教会也同样蒙受这救恩的奥秘,今天世界各地的教会亦然。这件事实本身,就足以证明“福音的奥秘”已扩展至万民。

张大卫牧师告诫我们,不要错过这宏大救恩计划已经临到我个人生命的震撼之处。很多人往往以为自己的信仰只是个人或偶然的选择,或者是受周边环境影响才接受福音,但事实上,我们早已包含在神自亘古以来所预备的救恩蓝图中。只有当我们意识到这一点,才会知道自己的信仰生活并非简单的宗教活动,而是参与到这波澜壮阔的神圣救恩历史之中。张大卫牧师由此反复强调,“福音的奥秘向圣徒显明了”这短短一句话蕴含的意义是多么深远,盼望我们深切默想。

另一方面,对于仍不明白这奥秘的世人,保罗在《使徒行传》28章中曾叹息说:“有眼却看不见,有耳却听不见”。张大卫牧师将此称为“不信的奥秘”,感慨“神已经如此明白敞开了福音之门,却仍有人看不见、听不见”。张大卫牧师在世界各地传道、培训牧者的过程中,见证过许多人对福音依旧充耳不闻、视而不见,也见证过有人因为领受神的恩典而满心欢喜。他说,“福音的奥秘”对能接受的人而言,就是通往救恩的钥匙,也是灵命分水岭。这个奥秘是隐藏的,却绝非一道完全关闭的大门,只要信心地叩门,就能进入其荣耀核心,这也是张大卫牧师不断宣讲的要点。

总之,张大卫牧师呼吁今日教会重新省思这“福音的奥秘”。这不只关乎某个教派或教义,而是关乎神在创世之前就已计划、并藉耶稣基督的十字架与复活得以完成,如今又借圣灵施行于全世界的宏伟救恩故事。我们当在这个壮丽的救恩叙事里找到自己信仰的位置。当这种意识更加清晰,信仰生活就不再流于日常义务或习惯,而是满怀参与超越且荣耀救恩大剧的喜乐。张大卫牧师坚信,这才是“抓住福音奥秘的信徒”的样子。


3. 圣灵与圣徒的生活

接着,张大卫牧师透过《歌罗西书》1章28节和29节的内容,着重强调使徒保罗所追求的“圣徒完全的样式”。经文中写道:“我们传扬他,是用诸般的智慧劝戒各人、教导各人,要把各人在基督里完完全全地引到神面前”(参《歌罗西书》1:28)。张大卫牧师提到,这里有两个核心的动词——“传扬”和“教导”。也就是说,信徒既要成为传福音者,又要成为“教导人明白福音真义、并培养门徒”的老师。这与耶稣在《马太福音》28章所颁布的大使命完全吻合:向万民传福音,使万民作主门徒,并奉三一真神的名为他们施洗,这正是教会存在的根本使命。对此,张大卫牧师再三强调。

那么,信徒如何能担负起这个使命?正如保罗在《歌罗西书》1章29节所言:“我也为此劳苦,照着他在我里面运用的大能尽心竭力。”张大卫牧师解释说,这“在我里面运用的大能”显然指圣灵。保罗并非倚靠自身知识或能力去传讲福音,而是藉着内住的圣灵之力,能在苦难中坚忍不拔,甘冒危险宣讲福音,建立教会,并带领信徒走向完全。在这里,张大卫牧师常引用《哥林多前书》3章16节和6章19节:“岂不知你们是神的殿,神的灵住在你们里面吗?”强调信徒已经成为神的殿,拥有神的灵内住,因此不再受世俗价值与私欲的辖制。

可见,圣灵的内住既是“我们已得救”的最显著标记,也是支撑信徒每天过圣洁生活的根本原则。张大卫牧师提醒,千万不要把“圣灵内住”只当作在教会里学习的“概念”或“理论”,而要在生活中切实地操练、聆听圣灵的声音,结出圣灵的果子(参《加拉太书》5章22-23节)。这些果子包括:仁爱、喜乐、和平、忍耐、恩慈、良善、信实、温柔、节制——这是圣灵在我们心中真实动工所显出的品格转变,也是判断一个人是否真的在信仰里被更新的最明显指标。

与此同时,张大卫牧师也提到与圣灵内住相伴的另一个关键概念——“管家意识”。在《歌罗西书》1章25节,保罗说:“我照神为你们所赐我的职分(或作:‘管理’、‘托管’)作了教会的执事”,英文NIV译本将此词翻译为“stewardship”。就如同管家受主人委托管理其家财一样,我们所有的一切——包括我们的生命、才干、金钱、时间以及福音本身——其实都来源于神,我们只是在神国里执行“托管”的使命。张大卫牧师强调,这种“管家式责任感”正是对内住圣灵的恰当回应。换句话说,我们必须认识到,自己所拥有的一切并非私有,而是神托付给我们,好让我们能忠心地用在“传扬福音、服事邻舍、建立神的国”上。

张大卫牧师提到,现代教会和信徒经常会陷入“灵性疲惫”或“无力感”,很多时候是因为把责任都压在自己身上,或者认为服事教会要付出太多牺牲和苦难。这时,保罗的榜样告诉我们,真正的变革力量不在于“我们自己”,而是来自“那位在我们里面运用大能的圣灵”。保罗即使被囚在监狱里,歌罗西教会、腓立比教会乃至其他各地的教会还是不断成长,这足以证明并非出于保罗“个人能力”,而是出于“神的能力”。因此,张大卫牧师反复呼吁:“要依靠圣灵,不断意识到住在你里面的圣灵。”若离开了圣灵,只凭己力去建立教会,终会面临无可避免的局限和挫败。

张大卫牧师在各地宣教和牧养同工时,见过许多圣灵实际工作的见证。在某些传福音极度困难的地区,信徒却能借祷告见证神奇的开路;在受逼迫的环境中,教会反而更加坚固。这样的经历真正印证了保罗所说“为主而受的苦绝不徒然”。在《哥林多后书》第4章,保罗欢然宣告:“我们四面受敌,却不被困住;心里作难,却不至失望”,内住圣灵让我们在各种艰难和逼迫里依旧能重新站立,这正是圣徒的权柄与能力。

除此之外,张大卫牧师进一步强调,圣徒的身份不应仅止步于“克服苦难”,而应该更积极地建造教会、服事他人、传扬福音,并且在此过程中体验“喜乐”。《腓立比书》中,保罗身处牢狱却仍多次说“你们要喜乐”,原因在于传扬福音和服事教会本身就是莫大的喜乐。张大卫牧师提到,他在各教会见证过很多领袖和信徒,经济上并不宽裕,甚至遭遇逼迫,但反而因为敬拜神、付出服事而收获何等大的快乐。这是世俗理性无法解释的,是“因圣灵同在而有的神圣礼物”。

简言之,《歌罗西书》1章24节到29节涵盖了“苦难与荣耀”、“福音的奥秘”、“圣灵内住与管家意识”、“福音传扬与信徒教导”等主题。这些主题的焦点都指向耶稣基督的十字架与复活,并且祂的灵如今住在我们里面。张大卫牧师最后强调:“我们应当持守这真理并站立起来。”即使信仰之路并非处处平坦,但因为这是主先行走的道路,并且有圣灵同行,我们必能最终抵达荣耀的终点。若能牢牢抓住《歌罗西书》的这段经文加以默想,信徒的人生就不会像“死鱼随波逐流”,而是充满喜乐、感恩与盼望地积极前行。张大卫牧师借此勉励大家。

最后,张大卫牧师援引保罗的话,再次祝愿所有信徒都能像保罗那样“以受苦为欢喜”,在这看似矛盾的宣告中忠心地完成神所托付的职分。无论是在教会中或宣教现场,只要我们所付出的一切辛劳能带领更多灵魂明白“基督在你们心里”这一福音奥秘,就没有任何苦难是徒然的。这正是张大卫牧师的核心信息:“在喜乐中与苦难同担,藉着圣灵大能服事教会,仰望终极荣耀。”保罗的其他书信,如《以弗所书》《腓立比书》《罗马书》《哥林多后书》等,都反复印证了这一点,也是张大卫牧师持续向当代信徒所宣讲的保罗神学精髓。

总而言之,从《歌罗西书》1章24至29节这段短短的经文,我们既能发现神自创世以来所预备的救恩计划与福音奥秘,又能体悟到“为基督的身体补满祂患难的缺欠”的教会使命,并看到依靠内住圣灵而跨越一切苦难、积极传扬福音的动力。一旦我们以这样的眼光来过信仰生活,就会有崭新的飞跃。张大卫牧师不断重申:“当记住,若没有基督的灵住在你们心里,你们就不属基督;但有了这灵,必将你们引向荣耀。”因此,过一个被圣灵充满的生活,就是每位圣徒唯一且确实的道路。这不仅是张大卫牧师多次重复、也鼓励信徒真实行出来的态度,更是所有基督徒在当今时代、无论在教会内部还是在社会中,都应当努力实践并逐渐内化的福音生活根基。

福音の秘密 – 張ダビデ牧師


1. 苦難にする正しい理解と光の希望

張ダビデ牧師が取り上げるコロサイ書1章24節から29節の御言葉を深く黙想してみると、使徒パウロが示した「苦難」に対する理解がどれほど重要かを痛感させられます。張牧師は多くの説教や講義を通じて、苦難は決して無駄なものではなく、神の救いのご計画の中で必ず栄光を伴う過程であることを強調します。これは単に痛みを肯定したり、苦難自体を美化するという意味ではなく、キリスト者として生きるときに経験する苦難が、私たちの内に隠されている「栄光」を現す道であることを示す教えです。

特にコロサイ1章24節「今や私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜び…」という使徒パウロの告白は、信仰者に訪れる苦難にどう向き合うべきかについて優れた指標となります。張牧師はここで、パウロが苦難に対して示す態度を「喜び」と要約し、世的な視点とは異なり、たとえ極度の患難や逆境に置かれたとしても落胆したり座り込まずに、その苦難の意味を見いだし、それが最終的に栄光へと至る通路であることを改めて認識すべきだと強調します。

張ダビデ牧師は、使徒パウロがコリントの信徒への手紙やローマ書など、他の書簡で示す苦難の理解も併せて調べるよう勧めます。たとえばローマ8章18節の「今の時の苦難は、将来わたしたちに現される栄光に比べれば取るに足りない」という御言葉は、苦難と栄光が密接に結びついていることを表しています。またコリント第二1章では、パウロが苦難を通してさらに深く神に拠り頼むようになり、それを通して慰めを経験したと告白しています。張牧師は、パウロのこのような告白が単に使徒個人の体験ではなく、すべての聖徒に与えられた「信仰の法則」であると強調します。つまり、苦難が訪れるとき、ただ悲しみや絶望に陥るのではなく、苦難が栄光へとつながる神の神秘的な摂理を信頼するゆえに、期待と希望をもって耐え忍ぶことができるのだというのです。

パウロは直接開拓した教会ではなかったコロサイの信徒に対してさえ、自分が今監獄に閉じ込められている状況でも、福音がまったく止まることがないと伝えています。張ダビデ牧師はピリピ書を引用し、パウロが獄中の極限状況にあっても「むしろ福音がさらに前進した」と高らかに宣言している様子を示します。これによって張牧師は、苦難が訪れたとしても、それは決して神のみわざを中断させる道具にはならず、神の目的を成し遂げるために用いられるのだと改めて悟らされると言います。結局、苦難は主の御国のために与えられる苦難であり、十字架を通られた主の復活にあずかるための聖なる道だということです。主が歩まれた十字架の道なしには復活も栄光もないことを、張牧師は繰り返し語ります。キリスト者であるならばこの道を歩むのは当然であり、そこでパウロは「この苦難に同参する喜び」を歌っていることが核心なのです。

さらに、コロサイ1章24節で「キリストの苦難の欠けたところを、そのからだである教会のために、自分の肉体に満たしている」という表現は、使徒パウロが自分の苦難を、キリストのからだである教会を建て広げるために喜んで「満たしていく」ものと見なしていたことを示唆しています。張ダビデ牧師は、主の十字架の出来事によってすでに完全な救いが成し遂げられたのだから、「残された苦難」という言い回しが矛盾しているようにも聞こえるかもしれないが、ここで言う「残された苦難」とは、最終的な救いのみわざが、この世に存在する教会を通して広がり完成していく過程において、教会共同体が共に担い、参加すべき分を指しているのだと詳しく解き明かします。主が十字架で死なれ復活されることによって、救いへの門は完全に開かれましたが、この世の終わりの日まで、教会が福音を伝え、主の道を歩むにあたって被るあらゆる労苦や困難がまだ残されているということです。パウロはそれを自分の身に負いながら、すなわち教会を建てるために受けるあらゆる患難と逆境をむしろ喜びとしたのです。これこそが苦難が栄光へと変わっていく実体的過程であるという点で、張牧師は聖徒たちがこのパウロの生き方と告白を心に刻むべきだと繰り返し強調します。

結局、張ダビデ牧師が語る真の苦難理解とは、単なる「忍耐」や「ポジティブ思考」ではなく、具体的な「栄光」と直結した信仰的洞察です。苦難の影響や苦難が導く方向、そして苦難がもたらす結果をすべて踏まえた上で、苦難を栄光への門と見なし、さらにその苦難を通して一層神を頼りにする態度が、必ず必要であると彼は繰り返し訴えます。加えて、張ダビデ牧師はコリント第二4章をたびたび言及しますが、そこでパウロが「四方から圧迫されても行き詰まらず、途方に暮れても失望しない」と語る箇所に、信仰のうちに苦難を理解する者の気概が如実に表れていると説きます。それは救われた聖徒の身分が天に属し、キリストの御霊が共におり、やがては復活と永遠の御国が待っているという確固たる確信の上にのみ可能となる態度です。そしてこれは決して根拠のない希望などではなく、十字架と復活という具体的な出来事の上に打ち立てられた「実体的な希望」であると張牧師は強調します。

さらに、パウロがコロサイ書1章25節~27節で救いの神秘について改めて語り、この福音の秘密が「昔から隠されていたが、今や明らかにされたものだ」と表現する部分も非常に印象的です。張ダビデ牧師は、遠い昔から神が用意しておられた救いのご計画が人類史の中に隠されており、時が満ちてイエス・キリストによって明確に示されたという事実こそ、聖徒たちにとって最大の確信と喜びを与えるメッセージだと強調します。こうしてイエス・キリストの十字架と復活によって完成された救いへの門はすべての異邦人にも開かれ、コロサイ教会だけでなく、今日の教会までこの福音の中に含まれるようになったのです。それゆえ、この福音が最終的に「栄光の希望」になるといえます。張ダビデ牧師は、使徒パウロが救いを「秘密(ミステリオン)」と呼ぶ理由を解説しつつ、私たちはその奥深い秘密が明かされた時代に生きていることを感謝と感激をもって享受すべきだと勧めています。

結論として、張ダビデ牧師は「今の苦難は決して終わりではなく、神が備えてくださる栄光と比べれば取るに足りない軽いものにすぎない」という使徒パウロの教えを、聖徒たちが必ず忘れないよう重ねて語ります。苦難にあってもそれで終わることはなく、必ず神の救いの摂理のうちに栄光へとつながるのだという信仰がなければ、キリスト者として世の狭き道、十字架の道を歩き続けるのは難しいからです。この道は復活と報い、そして栄光へとつながる道です。だからこそ、コロサイ1章24節にある「苦しみを喜ぶ」というパウロの逆説的表現が成り立ち、張ダビデ牧師はこれこそが真のクリスチャンの姿勢だと説くのです。


2. 神の救いのご計、福音の秘密

張ダビデ牧師は、コロサイ1章26節と27節で言及される「世々の昔から隠されていたものが、今やその聖徒たちに現された」という箇所を非常に重要視します。ここでいう「秘密」はギリシャ語で「ミステリオン」といい、この言葉が「ミステリー」の語源となります。パウロはこの秘密を「今やその聖徒たちに現された」と宣言していますが、張牧師は、これは旧約時代から預言されてきたものの、完全には把握されていなかった神の「人類救済計画」が十字架と復活の出来事によって決定的に姿を現したことを意味すると説明します。実際、エペソ3章でも同じ文脈で「隠されていた秘密が異邦人にまで明らかにされた」と語られていますが、張牧師はこのパウロの論旨に従い、神の救いのご計画がイスラエルだけの救いにとどまらず全人類へと拡張されていく過程に注目すべきだと強調します。

特に張ダビデ牧師は、ローマ9章~11章を引用し、本来選ばれた民であるイスラエルが福音を受け入れなかったことで、この福音が異邦人へと広がったというパウロの宣言が、どれほど逆説的でありながらも神の奥深い摂理を示すかを解き明かします。イエス・キリストを拒絶したイスラエルの不信仰は神の救いの計画を阻んだのではなく、むしろ福音が全世界へと伸びていく「きっかけ」となったのです。この事実を受け、パウロは「ああ、神の知恵と知識の富は何と深いことか」(ローマ11:33)と讃えます。張牧師は、この箇所こそ神の「秘密」が人類史の中でどのように展開してきたかをよく示していると語ります。つまり、神ははるか昔から人類を救おうとするご計画をお持ちであり、それが特定の民族や集団に限られるのではなく、全世界に開かれている点に、福音の本質的「普遍性」が現れるというのです。

続くコロサイ1章27節でパウロは、この秘密の核心を「あなたがたのうちにおられるキリスト」と定義します。そして「すなわち栄光の希望である」と続きますが、張ダビデ牧師は、ここで特に「あなたがたのうちにおられるキリスト」を強調します。すなわち、福音の秘密は外側にだけ存在する知識や事実ではなく、信じる者の内面に内住する聖霊を通して、私たちの生活の中で実際に働く力であり、関係性であるということです。この関係性こそ、聖徒が新しい被造物として生きる原動力となります。パウロはローマ8章で「もしキリストの御霊を持たない人があれば、その人はキリストに属するものではない」と断言し、「キリストがあなたがたのうちにおられるなら、体は罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きている」と語ります。張牧師はまさに、この内に住まわれる御霊こそ救いの核心的な原動力であると一貫して説きます。これは単に悔い改めの祈りを捧げたり、ある教義を受け入れたりするだけで終わるのではなく、実際に人生のあらゆる領域で私たちを変える力を意味するのです。

このように福音の秘密は「私の罪が一度きりで赦され、永遠に救われた」という宣言にとどまらず、キリストとの親密な連合、聖霊の聖なる内住、そして永遠の命への希望を含みます。張ダビデ牧師は、これこそコロサイ1章26~27節に込められた核心だと説きます。特にパウロが「今やその聖徒たちに現された」と語るとき、その対象はユダヤ人やイスラエルの民だけでなく、異邦人に至るまで包括した普遍的な教会を指しています。したがって、コロサイ教会のような異邦人中心の教会もこの救いの神秘に預かることとなり、同じように今日の全世界の教会もその恵みにあずかっているのです。この事実自体が「福音の秘密が万民に広がった」という証拠なのです。

張ダビデ牧師は、このように大いなる神の救いの摂理が私たちの生活にまで及んでいるという事実からくる感激を見失わないようにと強く訴えます。人は往々にして自分の信仰がたまたま個人的な選択や環境の影響によるものだと思いがちですが、実際には神が世々前から準備された救いの計画の中に私たちが組み込まれているという驚くべき事実を悟らなければならないのです。これを理解するとき、私たちの信仰生活は単なる宗教的活動ではなく、荘厳な神の救済史に参加している行為として認識されます。ゆえに張牧師は、「福音の秘密が聖徒たちに現された」という一文の内に、どれほど豊かな意味が含まれているかを深く黙想するよう、重ねて促します。

さらに、この秘密を知らない世に向かって、パウロは使徒言行録28章で「目があっても見えず、耳があっても聞こえない」と嘆く姿を見せます。張ダビデ牧師は、これを「神があれほど明るく開いてくださった福音の道を見ようとしない人間の悲しさ」と表現します。実際、張牧師自身は多くの国を巡って宣教し、牧師たちを育成する過程で、福音が届けられても聞こうとしない者や、目があっても見ようとしない者に多く出会ったといいます。一方で、神の恵みを受け入れて計り知れない喜びを味わう人々も数多く目撃したと証言します。結局、福音の秘密を「見ることができるか、できないか」は人生を大きく左右する分岐点であり、これこそが「救いに至る知恵」なのです。このように福音の秘密は隠されているようでいて、決して完全に閉ざされているわけではなく、信仰をもって扉を叩く者には開かれ、その栄光のただ中へと導く神の賜物であると、張ダビデ牧師は教えます。

結論として、張ダビデ牧師は、今日の教会こそ改めてこの福音の秘密を思い起こすべきだと訴えます。それは単なるある教派や教理の問題ではなく、神が天地創造の前から構想され、イエス・キリストの十字架と復活によって完成され、今も聖霊によって全世界に適用されている広大な救いの物語を指すからです。そしてその物語の中に、まさに私たちの信仰が位置づけられています。この認識がはっきりするならば、信仰生活は単なる日常の義務や習慣から解き放たれ、超越的で栄光に満ちた救いのドラマに参加する喜びに満たされるようになるのです。これこそが、張ダビデ牧師がいう「福音の秘密をつかんだ聖徒」の姿だといえます。


3. 住と聖徒の生き方

張ダビデ牧師は、コロサイ1章28節と29節の内容を通して、最終的に使徒パウロが目指す「聖徒の完全な姿」について強調します。「わたしたちは、このキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって各人を教え、戒め、すべての人をキリストにあって完全な者として立たせるためである」(コロサイ1:28)という御言葉です。張牧師はここで、2つの重要な動詞に注目すべきだと語ります。それは「宣べ伝える」と「教える」という点です。聖徒は福音を宣べ伝える伝道者であると同時に、その福音の深い意味を他者に教え、養い、立て上げる教師の役割を兼ね備えるべきだというのです。これはイエスがマタイ28章で命じられた大宣教命令とも完全に一致します。すなわち、すべての国々に福音を伝え、彼らを弟子とし、三位一体の名によってバプテスマを授けつつ教えよ、という命令こそが教会の存在理由であると、張牧師は繰り返し強調します。

では聖徒はどうやってこの使命を果たせるのでしょうか。それはまさにコロサイ1章29節でパウロが告白しているように、「私のうちで力強く働いておられる方の働きに従って」最善を尽くして労するからだと、張ダビデ牧師は説明します。ここで「力強く働いておられる方」とは明らかに聖霊のことであり、パウロは自分の持つ知識や力で福音を伝えているのではなく、内住する聖霊の力によって苦難に耐え、危険を顧みず福音を宣べ伝え、教会を建て、聖徒たちを完全な姿へと導いていることをはっきり示しているというのです。この文脈から張牧師は、コリント第一3章16節や6章19節をよく引用します。「あなたがたは、神の神殿であり、神の御霊があなたがたのうちに住んでいることを知らないのか」という御言葉を通して、信じる者はもはや世の価値観や欲望に支配されるのではなく、聖霊をお迎えする神の聖なる宮となったことを明確に理解すべきだというのです。

このように聖霊が内住するという事実は、救われたことを示す決定的な証であると同時に、聖徒の毎日の歩みを導く根本原理でもあります。張ダビデ牧師は、聖霊内住の教理を単なる教会で学ぶ「概念」や「理論」のままにせず、実際の生活の中でどのように聖霊の声を聞き、聖霊の実を結ぶことができるのかを日々模索し、実践すべきだと力説します。ガラテヤ5章22節~23節で語られる「聖霊の実」は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、節制などですが、これは聖霊が実際に私たちのうちに働くときに結ばれる品性であり、信じる者としての自我が変えられていく最も明確な指標だというのです。

また張ダビデ牧師は、聖霊の内住と合わせて、私たちがこの地上で担うべき働きを考える際に「執事(スチュワード)」という表現が重要だと説きます。コロサイ1章25節でパウロは「わたしが教会に仕える者とされたのは、あなたがたのために神がわたしに授けてくださった務めによるのです」と語りますが、NIV聖書ではこの「務め」を“stewardship”(執事職、あるいは管理人の職)とも訳しています。これは、家の主人の財産を預かり管理するしもべのように、私たちの人生や才能、物質、時間、そして福音そのものを含むすべてのものが神から委託されており、それを「福音宣教」や「隣人への仕え」、さらには「神の国を建て上げる働き」のために忠実に用いる責任がある、という意味を表しています。張牧師は、この執事的責任感こそ聖霊が内住する聖徒に求められる必然的態度だと主張します。つまり、自分の持つすべては実は自分の所有ではなく神が委ねたものであり、それを「福音の宣べ伝え」「隣人奉仕」「神の国を建て上げること」において忠実に使わなければならないということです。

張ダビデ牧師は、現代の教会や聖徒たちが時に霊的倦怠や無力感に陥ることがあるとしたうえで、それは「自分一人ですべてを背負わなければならない」と思い込んだり、あるいは「教会を仕えることには大きな犠牲や苦難が伴う」という人間的な限界認識のためだと言います。しかし、使徒パウロが示したように、真の変革の力は私たちの「内で力強く働く方」、すなわち聖霊から来るのであって、そのお方こそが私たちの苦難を支え、教会を建て上げ、福音を前進させてくださるのだという事実を忘れてはならない、と張牧師は重ねて強調します。パウロが獄中にあっても、最終的にコロサイ教会やピリピ教会など各地で福音が成長していくのは「パウロ個人の能力」ではなく「神の力」に懸かっていたことを確認できるからです。だからこそ張牧師は「聖霊に頼れ、内住する聖霊を常に意識せよ」と惜しみなく勧めます。聖霊抜きで自分の力だけで教会を建てようとすれば、その試みは必ず限界にぶつかり、ひずみを生じるしかないからです。

張ダビデ牧師が各国の宣教地や教会で幾度も経験した事例もまた、聖霊の力がいかに実際的に働くかを示しています。ある地域では、福音を伝えにくい状況であっても、聖徒たちが祈ることで驚くべき道が開かれ、迫害下にもかかわらず教会がいっそう堅固に立つことを幾度も見てきたと証言します。ゆえに彼は「主に仕える中で遭遇する苦難は決して無駄ではない」というパウロの宣言が、現代にもなお有効であり、教会の働きのために献身するすべての者にとっても同様の意味を持つと強調します。コリント第二4章でパウロが「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても落胆しない」と歌うように、聖霊に満たされた者は、どんな逆境や迫害の中でも「内住する聖霊の助け」によって再び立ち上がることができます。これこそが聖徒に与えられた特権であり力である、というのです。

さらに張ダビデ牧師は、聖徒が単に「苦難を乗り越える存在」にとどまるのではなく、むしろ能動的に教会を建て上げ、隣人に仕え、福音を伝える喜びを味わうべきだと強調します。ピリピ書でパウロが獄中にありながら「喜びなさい」と言うのは、福音の宣教と教会共同体を仕えること自体がすでに喜びだからです。実際に張牧師が出会った多くの教会のリーダーや聖徒たちは、経済的に豊かでなかったり迫害の厳しい環境にあるにもかかわらず、かえって礼拝と献身を通して大きな喜びを体験していたといいます。これは決して世の論理で説明できる次元の喜びではなく、「聖霊が共におられるからこそ可能な神の賜物」だと彼は語ります。

このようにコロサイ1章24節から29節は、「苦難と栄光」、「福音の秘密」、「聖霊の内住と執事職」、そして「福音宣教と聖徒の養育」という主題を総合的に含んでおり、それらすべての主題を一つに結びつける要となるのは、結局イエス・キリストの十字架と復活、そしてその御霊が私たちの内に住まわれるという事実です。張ダビデ牧師は、最後に強調することとして「今こそ私たちはこの真理を握って立ち上がらなければならない」と語ります。信仰の道は決してバラ色の道ではありませんが、その道が狭く険しくとも、主が先立って歩まれた道であり、聖霊が伴われる道であることを知って歩むなら、究極的な栄光の場へ至るという確信を持つべきです。コロサイ書のこの御言葉を深く受けとめ黙想するとき、聖徒の歩みは、死んだ魚のように世の波に流される生き方ではなく、喜びと感謝、希望にあふれた力強い生き方へと変えられる、と張牧師は励まします。

最後に張ダビデ牧師はこの御言葉を引用しつつ、すべての聖徒がパウロのように「苦しみを喜ぶ」という逆説のうちで与えられた職分を忠実に果たすよう祝福を祈ります。私たちが教会共同体や宣教の現場を仕えるあらゆる労苦が、最終的に「あなたがたのうちにおられるキリスト」という福音の神秘をより多くの魂に伝えることにつながるのならば、いかなる苦難も決して無駄にならないのです。これこそが「喜びのうちに苦難にあずかり、聖霊の力によって教会に仕え、栄光を仰ぐ」という張ダビデ牧師の核心的メッセージです。このメッセージはコロサイ書だけでなく、エペソ書、ピリピ書、ローマ書、コリント第二書など、パウロの他の書簡全体を通じて繰り返し確認できるものであり、張牧師が現代の聖徒たちに重ねて説いているパウロ神学の精髄でもあります。

要するに、コロサイ1章24節から29節という短い本文の中にも、神が永遠の昔から備えてくださった救いのご計画と福音の秘密、そしてキリストの残された苦難を喜びをもって満たす教会の使命、最後に内住する聖霊によってあらゆる苦難を乗り越え福音を宣べ伝える力の源が示されています。もし私たちがこの事実を発見し、把握するなら、信仰生活はまったく新しい次元へと飛躍するでしょう。張ダビデ牧師は「思い起こしなさい。あなたがたの内にキリストの御霊があってこそ、あなたがたはキリストのものである。そしてその御霊こそがあなたがたを栄光へ導かれるのだ」と繰り返し強調し、聖霊に満たされた歩みこそ聖徒として進むべき唯一にして確固たる道だと力強く語ります。まさにこれが張ダビデ牧師が何度も繰り返し説き、また聖徒たちに自ら実践するよう勧めてきた生き方であり、現代を生きるすべてのキリスト者が教会の内外で体現すべき「福音的生の基礎」であると、はっきりと示しているのです。

The Secret of the Gospel – Pastor David Jang 


1. A Proper Understanding of Suffering and the Hope of Glory

When we meditate deeply on Colossians 1:24–29, as preached by Pastor David Jang, we realize how crucial the apostle Paul’s understanding of “suffering” truly is. Through multiple sermons and lectures, Pastor Jang emphasizes that suffering is never in vain; rather, it is an indispensable process within God’s plan of salvation that inevitably accompanies glory. This does not mean we glorify pain itself or naïvely affirm suffering. Rather, it teaches that for Christians, the suffering we encounter reveals the “glory” hidden within us. In particular, Paul’s confession in Colossians 1:24—“Now I rejoice in my sufferings for your sake”—serves as an excellent guide for how believers should respond when trials come. By summarizing Paul’s posture toward suffering as “joy,” Pastor Jang contrasts the worldly perspective with one of faith, urging us not to lose heart or give up even in severe tribulation or adversity. Instead, he insists that we discover the meaning of such suffering, reaffirming that it ultimately serves as a pathway to glory.

Pastor David Jang recommends examining Paul’s view of suffering as found in other letters such as Second Corinthians and Romans. For instance, Romans 8:18 says, “For I consider that the sufferings of this present time are not worth comparing with the glory that is to be revealed to us,” showing the close connection between suffering and glory. In 2 Corinthians 1, Paul confesses that his suffering led him to rely on God more deeply, through which he experienced comfort. Pastor Jang emphasizes that Paul’s confession is not merely a personal anecdote of the apostle but a “law of faith” given to all believers. In other words, when suffering comes, we should not only feel sadness or discouragement but also trust in the mysterious plan of God that connects suffering to glory. In that trust, we can endure with expectation and hope.

Even to the Colossian church—a community Paul did not personally evangelize or found—he proclaims that, despite his own imprisonment, the gospel has not been hindered at all. Pastor Jang cites Philippians as an example, noting how Paul, in the extreme situation of prison, exclaims, “Rather it has served to advance the gospel.” From this, Pastor Jang reiterates that even when suffering comes, it can never halt God’s work but is instead used to fulfill God’s purpose. Ultimately, suffering is for the sake of the Lord’s kingdom, a holy path that leads us to participate in the resurrection of the Lord who passed through the cross. Pastor Jang repeatedly points out that without the way of the cross, there can be no resurrection and no glory. For Christians, therefore, it is only right that we walk this path, and here Paul sings of “the joy of participating in these sufferings.” This is the essential point.

Furthermore, Colossians 1:24 mentions “filling up what is lacking in Christ’s afflictions in my flesh for the sake of his body, that is, the church.” This indicates that Paul viewed his own suffering as something he gladly “fills up” to build and expand the body of Christ, the church. Pastor Jang explains in detail that, although complete salvation was already accomplished on the cross, the expression “what is lacking in Christ’s afflictions” can sound contradictory at first. What Paul means by “remaining suffering” is the portion that the church community collectively bears and participates in as God’s grand work of salvation unfolds and is completed in the world through the church. Christ’s death and resurrection opened the door of salvation fully, yet until the end of the age, there remains for the church the labor and hardships of preaching the gospel and walking in the Lord’s way. Paul, by filling that up in his own body—that is, by regarding all the tribulations and adversities he endures for the sake of establishing the church as a joy—demonstrates a real process by which suffering turns into glory. Pastor Jang insists that believers must firmly imprint such a life and confession of Paul in their hearts.

In conclusion, Pastor Jang argues that the true understanding of suffering is not merely “endurance” or “positivity” but a faith-based insight directly linked to “glory.” He repeatedly stresses the need to view suffering as a doorway to glory by carefully observing the impact of suffering, the direction it leads, and the results it brings, and by adopting an attitude of deeper reliance on God through it. Additionally, Pastor Jang often references 2 Corinthians 4, where Paul declares, “We are afflicted in every way, but not crushed; perplexed, but not driven to despair.” He explains that these words clearly show the spirit of one who understands suffering through faith. Such an attitude is possible only upon the firm assurance that our redeemed status is anchored in heaven, that Christ’s Spirit is with us, and that the resurrection and eternal kingdom await us. And this attitude is by no means an empty, baseless hope, for it is founded upon the concrete event of the cross and the resurrection—a “substantial hope,” as Pastor Jang calls it.

Paul revisits the mystery of salvation in Colossians 1:25–27, referring to it as something “hidden for ages and generations but now revealed to his saints.” Pastor Jang highlights that from ancient times, God’s plan of salvation was hidden within human history and was finally made clear through Jesus Christ. This is the greatest source of assurance and joy for believers. Because of the cross and resurrection of Jesus Christ, the door of salvation has been fully opened to all Gentiles, and it is through this that churches like Colossae and churches today are included in the gospel. Hence this gospel can truly be called the “hope of glory.” Pastor Jang explains why Paul refers to salvation as a “mystery” (mysterion) and urges us to be thankful and filled with wonder that we live in an era when this marvelous secret has been revealed.

Ultimately, Pastor Jang reiterates that believers must remember Paul’s teaching: “The sufferings of the present are by no means the end, but merely a light momentary affliction when compared to the glory God has prepared.” Without such faith—believing that any suffering will surely lead to glory in God’s redemptive plan—it is difficult to walk the narrow path of the world, the way of the cross, as a Christian. That path leads to resurrection, reward, and glory. Because of that, we can grasp the paradoxical expression in Colossians 1:24: “I rejoice in my sufferings.” Pastor Jang teaches that this is indeed the posture of a true Christian.


2. God’s Plan of Salvation, the Secret of the Gospel

Pastor David Jang places great importance on Colossians 1:26–27, where it says, “the mystery hidden for ages and generations but now revealed to his saints.” The Greek word for “mystery” here is mysterion, from which the English word “mystery” derives. Paul proclaims that this mystery “is now revealed to his saints,” and Pastor Jang interprets this as the decisive unveiling of God’s “plan to save humanity,” which had been prophesied since Old Testament times but never fully understood until the cross and resurrection. Indeed, Ephesians 3 addresses a similar context, emphasizing that “the mystery once hidden has now been revealed even to the Gentiles.” Following Paul’s logic, Pastor Jang stresses how we should notice that God’s plan of salvation extends beyond Israel to all humankind.

Pastor Jang specifically references Romans 9–11 to show how Paul proclaims that the gospel, ironically and mysteriously, expanded to the Gentiles because the originally chosen people—Israel—failed to accept it. Israel’s rejection of Jesus Christ did not obstruct God’s salvation plan but instead served as the very “trigger” for the gospel to spread throughout the entire world. Concerning this, Paul exclaims, “Oh, the depth of the riches and wisdom and knowledge of God!” (Rom. 11:33). Pastor Jang believes this passage illustrates how God’s “mystery” has unfolded in human history. From long ago, God had a plan to save humanity—not limited to a particular people or group but opened to the whole world—and thus revealed the fundamental universality of the gospel.

Continuing, in Colossians 1:27, Paul pinpoints the core of this mystery as “Christ in you.” He then calls it “the hope of glory.” Pastor Jang places special emphasis on “Christ in you.” In other words, the secret of the gospel is not just external knowledge or fact; rather, it is a power and relationship that operates tangibly in the life of the believer through the indwelling Holy Spirit. That relationship becomes the driving force for believers to live as new creations. In Romans 8, Paul declares, “Anyone who does not have the Spirit of Christ does not belong to him,” and, “If Christ is in you, although the body is dead because of sin, the Spirit is life because of righteousness.” Pastor Jang continually teaches that this indwelling Spirit is the essential power of salvation. It does not stop at a mere prayer of repentance or acceptance of a particular doctrine but rather signifies a real power that transforms us in every facet of life.

Thus, the secret of the gospel is not limited to the declaration, “My sins have been forgiven once for all, and I am eternally saved.” It also includes intimate union with Christ, the holy indwelling of the Holy Spirit, and the hope of eternal life. Pastor Jang explains that this is at the heart of Colossians 1:26–27. Moreover, when Paul says, “Now it is revealed to his saints,” it refers not merely to the Jews or the people of Israel; it encompasses the universal church, including the Gentiles. Hence the predominantly Gentile church at Colossae also participated in this mystery of salvation, just as churches around the world do today. This fact itself is evidence that “the secret of the gospel has been extended to all humankind.”

Pastor Jang urges believers not to lose sight of the overwhelming wonder that God’s grand plan of salvation, which has spanned all ages, has reached each of our lives. People often assume their faith is the result of random choices or environmental factors. In reality, however, we must realize that we have been included in the salvation plan God prepared from before time began. Once we grasp this, our life of faith ceases to be a mere religious exercise, transforming instead into participation in the majestic work of God’s salvation. For this reason, Pastor Jang repeatedly exhorts us to meditate deeply on how much meaning is contained in that single phrase: “the mystery of the gospel has been revealed to the saints.”

Paul, in Acts 28, laments the state of the world that “has eyes but does not see, and has ears but does not hear,” because it does not know this mystery. Pastor Jang calls this the “mystery of unbelief,” describing it as “the tragedy of not seeing the open way of the gospel so clearly laid out by God.” Indeed, Pastor Jang, who has traveled to many countries, planting churches and equipping pastors, testifies that he has seen countless individuals who neither hear nor see even when the gospel is preached. At the same time, he has also witnessed many who, having accepted God’s grace, are filled with inexpressible joy. Ultimately, recognizing or failing to recognize the mystery of the gospel is the defining fork in the road of life, and it is also “the wisdom that leads to salvation.” Although the mystery remains hidden, it is by no means entirely blocked; it is God’s gift, open to those who come by faith, guiding them to the center of glory, teaches Pastor Jang.

Concluding this point, Pastor Jang exhorts the church today to revisit this secret of the gospel. It is not just a matter of denominational or doctrinal differences but speaks of the vast salvation narrative God has designed from before creation, fulfilled through the cross and resurrection of Jesus Christ, and applied throughout the world by the Holy Spirit. We locate our own faith within that unfolding narrative. When this realization becomes clear, faith moves beyond mere religious routine or habit to become an act of joyful participation in the transcendent and glorious drama of salvation. This is precisely what Pastor Jang calls “the life of believers who hold fast to the secret of the gospel.”


3. The Indwelling of the Holy Spirit and the Life of the Saints

Turning to Colossians 1:28–29, Pastor David Jang emphasizes the “complete maturity of believers” as the ultimate aim to which Paul aspires. Colossians 1:28 says, “Him we proclaim, warning everyone and teaching everyone with all wisdom, that we may present everyone mature in Christ.” Pastor Jang draws attention to two key verbs here: “proclaim” and “teach.” He notes that believers are both heralds who proclaim the gospel and teachers who instruct others in its deeper meaning, thus nurturing and establishing them. This corresponds exactly with the Great Commission in Matthew 28, where Jesus commands us to preach the gospel to all nations, make disciples, and teach them—baptizing them in the name of the Triune God. Pastor Jang repeatedly emphasizes that this is the very purpose of the church’s existence.

How then can believers fulfill this mission? According to Pastor Jang, Colossians 1:29 provides the answer: “For this I toil, struggling with all his energy that he powerfully works within me.” The “powerfully works within me” refers clearly to the Holy Spirit. Paul is not proclaiming the gospel through his own intellect or strength; rather, he endures suffering, faces danger, spreads the gospel, plants churches, and leads believers to maturity through the power of the indwelling Holy Spirit. In this context, Pastor Jang often cites 1 Corinthians 3:16 and 6:19: “Do you not know that you are God’s temple and that God’s Spirit dwells in you?” He reminds believers that, having become temples of the Holy Spirit, they should not be governed by worldly values and desires but should recognize themselves as God’s holy dwelling place.

The fact that the Holy Spirit dwells within us is both the definitive proof of our salvation and the foundational principle guiding our daily lives. Pastor Jang warns against reducing the doctrine of the Holy Spirit’s indwelling to a mere “theological concept” or “theory,” urging believers to ponder daily how to hear the Holy Spirit’s voice and bear the fruit of the Spirit in practical life. As detailed in Galatians 5:22–23, the fruit of the Spirit includes love, joy, peace, patience, kindness, goodness, faithfulness, gentleness, and self-control—these are the very traits that manifest when the Spirit actively works within us, transforming our character and serving as the most visible indicator of a believer’s changed life.

Along with the indwelling of the Holy Spirit, Pastor Jang underscores the word “stewardship” when he speaks of our earthly ministry. In Colossians 1:25, Paul says, “I became a minister of the church according to the stewardship from God that was given to me for you” (NIV). This implies a responsibility similar to that of a servant managing the master’s property. All that we possess—our lives, talents, finances, time, and especially the gospel—has been entrusted to us by God, and we have the duty to manage and use these resources faithfully for “proclaiming the gospel,” “serving our neighbors,” and “building up God’s kingdom.” Pastor Jang emphasizes that this sense of responsibility as stewards is an inevitable stance required of believers who are indwelt by the Holy Spirit. In other words, nothing we have truly belongs to us; rather, we must devote it wholeheartedly to proclaiming the gospel, serving others, and establishing God’s kingdom.

Pastor Jang points out that many modern churches and believers sometimes fall into spiritual lethargy or helplessness, often due to the human perception that “I alone must bear all the responsibility,” or that “serving the church requires too many sacrifices and hardships.” But, as seen in Paul’s example, genuine transformative power comes from “the One who works mightily within us,” namely the Holy Spirit, and we must never forget this, Pastor Jang stresses. Even though Paul was imprisoned, churches in places like Colossae and Philippi continued to grow in the gospel, showing us that it depended not on Paul’s personal abilities but on “God’s power.” Hence, Pastor Jang persistently advises believers, “Rely on the Holy Spirit. Be conscious of the indwelling Holy Spirit every moment.” Without the Holy Spirit, any attempt to build the church in our own strength will inevitably meet its limit and result in discord.

Pastor Jang has personally witnessed multiple examples of the Holy Spirit’s tangible work in various mission fields and churches across many nations. In places where it was difficult to preach the gospel, believers persisted in prayer, and astonishing doors opened. Under persecution, churches often became stronger rather than collapsing. For this reason, he testifies that Paul’s declaration—“the suffering that comes in serving the Lord is never in vain”—remains as valid today as ever, and it applies to anyone who devotes themselves to ministry in the church. As in 2 Corinthians 4, where Paul says, “We are afflicted in every way, but not crushed; perplexed, but not driven to despair,” those filled with the Spirit can stand again even in the worst adversities and persecutions, thanks to “the help of the Spirit who dwells in us.” Pastor Jang insists that this is precisely the believer’s privilege and power.

Moreover, Pastor Jang encourages believers to go beyond merely “overcoming suffering” and instead actively build up the church, serve their neighbors, and rejoice in spreading the gospel. In Philippians, Paul, even in prison, exhorts believers to “rejoice,” implying that the very acts of proclaiming the gospel and serving the church community are themselves sources of joy. Indeed, Pastor Jang has encountered many church leaders and believers who, despite financial lack or intense persecution, experience great joy in worship and service. This kind of joy simply cannot be explained by worldly logic; he describes it as “a gift from God made possible by the Holy Spirit’s presence.”

Thus, Colossians 1:24–29 covers themes of “suffering and glory,” “the secret of the gospel,” “the indwelling of the Holy Spirit and the believer’s stewardship,” and “proclaiming the gospel and nurturing believers”—all interconnected by the cross, the resurrection, and the indwelling Spirit of Christ. Finally, Pastor Jang underscores, “Now that we possess this truth, we must arise.” Though the path of faith is certainly not an easy one, it is the way of the Lord, who walked it first, and the Holy Spirit walks with us. Knowing this, we can traverse the narrow and treacherous path with the certainty that it ultimately leads to glory. Clinging tightly to the message of Colossians, believers need not drift along like dead fish in the current of life but can live dynamically, filled with joy, gratitude, and hope, Pastor Jang encourages.

Pastor Jang concludes by citing this passage, blessing all believers so that, like Paul, they may “rejoice in sufferings” in the midst of paradox and faithfully fulfill their calling. If all our labors in serving the church and mission fields ultimately contribute to spreading the mystery of “Christ in you” to many souls, then no suffering is ever wasted. This is the core message of Pastor David Jang—“to participate joyfully in suffering, to serve the church through the power of the Holy Spirit, and to look toward glory.” This message, Pastor Jang explains, is confirmed throughout Paul’s other letters such as Ephesians, Philippians, Romans, and Second Corinthians, and it is the essence of Paul’s theology that he passionately reminds modern believers of time and again.

By carefully studying even this short passage—Colossians 1:24–29—we discover God’s plan of salvation, ordained from before the ages, the secret of the gospel, the church’s calling to fill up what is lacking in Christ’s afflictions with joy, and the divine power we have to endure all suffering and proclaim the gospel through the indwelling Holy Spirit. If we truly grasp all these things, Pastor Jang declares, our life of faith will advance to an entirely new dimension. He repeatedly emphasizes, “Remember that you must have the Spirit of Christ in you to belong to Christ. That Spirit will lead you to glory.” A life filled with the Holy Spirit is, in the end, the one sure and certain way believers must walk. This is the stance Pastor David Jang has reiterated many times, urging believers to put it into practice, and it forms the bedrock of the gospel life that all Christians should pursue—both within and beyond the church walls.

El Misterio del Evangelio – Pastor David Jang 


1. Una comprensión correcta del sufrimiento y la esperanza de la gloria

Al meditar profundamente en el pasaje de Colosenses 1:24-29 que el Pastor David Jang expone, uno se da cuenta de la gran importancia de la comprensión que el apóstol Pablo tenía acerca del “sufrimiento”. El pastor, a través de varios sermones y enseñanzas, enfatiza que el sufrimiento nunca es en vano, sino que dentro del plan de salvación de Dios, este proceso va siempre acompañado de gloria. Esto no significa glorificar el sufrimiento en sí mismo o verlo simplemente de manera positiva, sino reconocer que el sufrimiento que experimentamos al vivir como cristianos se convierte en un camino para revelar la “gloria” escondida en nuestro interior.

En particular, la confesión de Pablo en Colosenses 1:24: “Ahora me gozo en lo que padezco por vosotros…” se presenta como una referencia sobre cómo los creyentes deben enfrentar el sufrimiento que se presenta en sus vidas. El pastor destaca que la actitud de Pablo ante el sufrimiento se resume en el término “gozo”. Contrariamente a la perspectiva del mundo, cuando nos encontramos con tribulaciones o adversidades extremas, no debemos desanimarnos ni quedarnos atascados, sino descubrir el significado de ese sufrimiento, recordando que, en última instancia, es un canal que nos dirige hacia la gloria.

El Pastor David Jang anima a considerar, junto con esta enseñanza, la comprensión que Pablo demuestra sobre el sufrimiento en otros pasajes, como en 2 Corintios y Romanos. Por ejemplo, Romanos 8:18 dice: “Pues tengo por cierto que las aflicciones del tiempo presente no son comparables con la gloria venidera que en nosotros ha de manifestarse”. Este versículo muestra cuán estrechamente se relacionan el sufrimiento y la gloria. Asimismo, en 2 Corintios 1, Pablo confiesa que, a través del sufrimiento, llegó a confiar más profundamente en Dios y, a la vez, experimentó Su consuelo. El Pastor David Jang resalta que esta confesión no se limita a la experiencia personal de un apóstol, sino que es una “ley de la fe” aplicada a todos los santos. Es decir, cuando llega el sufrimiento, no se trata únicamente de tristeza o desaliento, sino de confiar en el misterio divino de que el sufrimiento conduce a la gloria, de modo que podemos perseverar con esperanza y expectativa.

Aunque Pablo no había fundado directamente la iglesia de Colosas, les transmite a los creyentes de esa comunidad, incluso estando él mismo encarcelado, que el evangelio no se ha detenido en absoluto. El Pastor David Jang cita Filipenses para explicar que Pablo, aun en esa situación extrema de prisión, exclama que “más bien, el evangelio ha progresado”. De este modo, el Pastor David Jang recalca que, aunque llegue el sufrimiento, jamás podrá ser un instrumento para detener la obra de Dios, sino que se usará para cumplir Su propósito. En definitiva, el sufrimiento es para el reino del Señor y, al pasar por la cruz, llegamos a participar en la resurrección del Señor; es un camino sagrado. El Pastor David Jang menciona en reiteradas ocasiones que sin el camino de la cruz que recorrió el Señor no hay resurrección ni gloria. Por lo tanto, para el creyente, este camino es el que debe seguir, y es justamente aquí donde Pablo canta “el gozo de participar en este sufrimiento”.

Además, en Colosenses 1:24 se habla de “lo que falta de las aflicciones de Cristo, en mi carne, por amor de su cuerpo, que es la iglesia”. Esto sugiere que Pablo veía su propio sufrimiento como algo que, por amor a la iglesia, “completaba” con gozo. El Pastor David Jang explica que, aunque la salvación ya se consumó perfectamente en el evento de la cruz de Cristo, la expresión “lo que falta” podría sonar contradictoria. Sin embargo, este “sufrimiento que queda” se refiere a la parte que la comunidad de la iglesia, a lo largo de la historia, tiene que asumir y compartir para que la obra de salvación culmine en el mundo. Si bien el Señor, con Su muerte y resurrección, ha abierto plenamente la puerta de la salvación, hasta el fin de los tiempos la iglesia todavía enfrenta dificultades y trabajos mientras predica el evangelio y recorre el camino del Señor. Pablo va “llenando” esto en su carne, de modo que, al construir la iglesia, considera con gozo todas las aflicciones y adversidades que padece. Precisamente en ese proceso real de transformación del sufrimiento en gloria, el Pastor David Jang insiste en la necesidad de que los creyentes atesoren la vida y la confesión de Pablo.

En consecuencia, la verdadera comprensión del sufrimiento que presenta el Pastor David Jang no se limita a la “paciencia” o a un simple “optimismo”, sino que está conectada con una comprensión espiritual concreta de la “gloria”. Al examinar los efectos del sufrimiento, la dirección en la que conduce y el resultado que produce, el Pastor David Jang enseña que el sufrimiento se convierte en una puerta hacia la gloria y, a través de él, aprendemos aún más a depender de Dios. Además, el Pastor David Jang menciona con frecuencia el capítulo 4 de 2 Corintios, donde Pablo afirma que “estamos atribulados en todo, mas no angustiados; en apuros, mas no desesperados”, lo que demuestra la entereza de quien comprende el sufrimiento desde la perspectiva de la fe. Se trata de una actitud que solo es posible sobre la base de la firme convicción de que el creyente, ya salvado, pertenece al cielo, que el Espíritu de Cristo está con él, y que le espera la resurrección y el reino eterno. Y no es una esperanza ciega o en el aire, sino una “esperanza real” cimentada en el hecho histórico y concreto de la cruz y la resurrección, puntualiza el Pastor David Jang.

Por otra parte, es notable la expresión de Pablo en Colosenses 1:25-27, donde se refiere nuevamente al misterio de la salvación y afirma que este “misterio” había estado oculto durante siglos, pero que ahora se ha manifestado. El Pastor David Jang resalta que, desde la antigüedad, el plan de salvación de Dios ha estado “oculto” en la historia de la humanidad y que, cuando llegó el tiempo, se reveló con claridad a través de Jesucristo. Este mensaje, dice el pastor, es motivo de la mayor certidumbre y gozo para los creyentes. Así, mediante la cruz y la resurrección de Jesucristo, la puerta de la salvación fue abierta para todos los gentiles, lo que incluye a la iglesia de Colosas y a la iglesia actual. Por ello, se afirma que el evangelio se convierte, en última instancia, en “la esperanza de gloria”. El Pastor David Jang explica la razón por la que Pablo describe la salvación como un “misterio” (mysterion): estamos viviendo en la época en la que se ha revelado ese maravilloso secreto, y por ello debemos vivir con gratitud y asombro.

En conclusión, el Pastor David Jang reitera que “las aflicciones presentes no son el fin, sino algo que no puede compararse con la gloria que Dios ha preparado”. Sin esta confianza de que el sufrimiento se encamina hacia la gloria dentro del plan de salvación de Dios, es difícil que el cristiano transite por el camino estrecho de la cruz en este mundo. Ese camino conduce a la resurrección, a la recompensa y, finalmente, a la gloria. Por eso, la expresión paradójica de Pablo en Colosenses 1:24: “me gozo en lo que padezco” cobra sentido. El Pastor David Jang enseña que esta es, precisamente, la actitud genuina del cristiano.


2. El plan de salvación de Dios, el misterio del evangelio

El Pastor David Jang considera de suma importancia el pasaje de Colosenses 1:26-27, donde se lee: “el misterio que había estado oculto desde los siglos y edades, pero que ahora ha sido manifestado a sus santos”. La palabra “misterio” procede del término griego mysterion, de donde proviene la palabra “misterio” en español. Pablo proclama que este misterio “ahora ha sido manifestado a sus santos”, y el Pastor David Jang aclara que esto significa que el “plan de salvación” de Dios, profetizado a lo largo del Antiguo Testamento, pero no plenamente comprendido, se reveló de manera decisiva con la cruz y la resurrección de Jesucristo. En Efesios 3 se expresa algo similar: “el misterio, que había estado oculto, ahora es revelado también a los gentiles”. Siguiendo la línea argumental de Pablo, el Pastor David Jang anima a observar cómo el plan de salvación de Dios no se limitó a Israel, sino que se fue extendiendo a toda la humanidad, resaltando así la importancia de esta “universalidad” del evangelio.

En especial, el Pastor David Jang menciona Romanos 9-11 para explicar cómo el anuncio de Pablo acerca de la salvación revela la profundidad y la sabiduría de la providencia divina: la incredulidad de Israel al rechazar a Jesucristo no frustró el plan de salvación de Dios, sino que, de forma paradójica, posibilitó que el evangelio se extendiera a los gentiles. Esto lleva a Pablo a exclamar: “¡Oh profundidad de las riquezas de la sabiduría y de la ciencia de Dios!” (Romanos 11:33). Según el Pastor David Jang, este pasaje muestra cómo el “misterio” de Dios se ha desarrollado en la historia humana. Dios decidió salvar a la humanidad desde hace mucho tiempo, y esa salvación no se restringe a un solo pueblo o grupo, sino que se ofrece al mundo entero, manifestando así el carácter “universal” del evangelio.

Luego, en Colosenses 1:27, el apóstol Pablo identifica la esencia de ese misterio con la frase “Cristo en vosotros”, a la que llama “la esperanza de gloria”. El Pastor David Jang insiste en subrayar “Cristo en vosotros”. Es decir, el misterio del evangelio no es solo una información externa o un dato histórico, sino una realidad que se hace efectiva en nuestra vida a través del Espíritu Santo que mora en el creyente. Esta relación, basada en la morada de Cristo en el interior, es la fuerza motriz que permite al cristiano vivir como nueva criatura. Pablo, en Romanos 8, declara: “Y si alguno no tiene el Espíritu de Cristo, no es de él”; también explica que “si Cristo está en vosotros, el cuerpo en verdad está muerto a causa del pecado, mas el espíritu vive a causa de la justicia”. El Pastor David Jang recalca, una y otra vez, que esta presencia interna del Espíritu constituye la fuerza esencial de la salvación. No se reduce a una oración de arrepentimiento o a la aceptación de una doctrina, sino que es un poder transformador y real en todas las áreas de la vida.

De la misma manera, el misterio del evangelio no termina con la declaración de “mis pecados han sido perdonados de una vez y para siempre y he recibido la salvación eterna”. Más bien, engloba la íntima unión con Cristo, la morada del Espíritu Santo, y la esperanza de la vida eterna. El Pastor David Jang señala que esto es precisamente lo que vemos en Colosenses 1:26-27. Y cuando Pablo dice “ahora ha sido manifestado a sus santos”, se refiere no solo a los judíos o al pueblo de Israel, sino que abarca a los gentiles de manera universal, esto es, a la iglesia de Colosas y a todas las iglesias hasta el día de hoy. Esta realidad confirma que el misterio del evangelio se expandió a todos los pueblos.

El Pastor David Jang advierte que es fundamental no perder la sensación de asombro al entender que este vasto plan de salvación de Dios también ha alcanzado mi propia vida. Solemos pensar que nuestra fe se debe únicamente a un acto individual o a las influencias del entorno, pero en realidad participamos del plan de Dios, quien ha preparado la salvación desde antes de la creación. Cuando uno se da cuenta de esto, la vida de fe deja de ser una actividad religiosa rutinaria y se convierte en la participación en la grandiosa historia salvadora de Dios. Por esa razón, el Pastor David Jang subraya una vez más la necesidad de meditar en la profundidad de la frase “el misterio del evangelio ha sido revelado a los santos”.

Además, el pastor menciona que, en Hechos 28, Pablo lamenta diciendo: “Verán, y no verán; oirán, y no oirán”, ante la ceguera e incredulidad de algunos. David Jang llama a esto “el misterio de la incredulidad”, donde, a pesar de que el camino del evangelio está totalmente abierto, muchos no lo ven ni lo aceptan. En su experiencia misionera viajando a diferentes países y formando a pastores, el Pastor David Jang ha encontrado tanto a quienes no pueden oír ni ver este mensaje como a quienes lo reciben con inmenso gozo. Al final, si se “ve” o no se “ve” el misterio del evangelio marca un punto de inflexión decisivo en la vida de cualquier persona. Es este misterio el que conduce a la salvación. Aunque esté oculto, no está bloqueado para siempre, pues se abre para quien llama con fe. De esta forma, introduce a la persona al centro mismo de la gloria, convirtiéndose en el regalo que Dios ofrece, enfatiza el Pastor David Jang.

En definitiva, el Pastor David Jang exhorta a la iglesia actual a recordar y aferrarse de nuevo al misterio del evangelio. No se trata de un debate particular sobre denominaciones o dogmas, sino de contemplar el gran relato de salvación que Dios planeó antes de la creación, que Cristo completó con Su cruz y resurrección, y que el Espíritu Santo sigue aplicando en todo el mundo hoy. Y nuestra fe está justamente inserta en ese gran relato. Al tener clara esta conciencia, la vida de fe deja de ser algo meramente rutinario o obligatorio, y se transforma en una experiencia llena de alegría y trascendencia, al tomar parte en el “drama de la salvación” de Dios. Para David Jang, esa es la imagen del “creyente que se aferra al misterio del evangelio”.

Finalmente, al mencionar el pasaje de Hechos 28, el Pastor David Jang recalca la pena que siente Pablo ante quienes, pese a tener la oportunidad, no pueden creer. Y lo llama “misterio de la incredulidad”, pues resulta asombroso ver que no todos aceptan un camino de salvación tan evidente y abierto. Pero, al mismo tiempo, hay quienes sí lo reciben y experimentan un gozo indescriptible. Así, el misterio del evangelio –aunque esté velado a algunos– está disponible a quienes, con fe, tocan la puerta, y es la entrada a la gloria que Dios ofrece a la humanidad. Según el Pastor David Jang, este mensaje trasciende el tiempo y continúa siendo la esencia de la obra de la iglesia en la actualidad.


3. La morada del Espíritu Santo y la vida del creyente

El Pastor David Jang, basándose en Colosenses 1:28-29, explica el objetivo final que persigue el apóstol Pablo en relación con la “madurez total de los creyentes”. El versículo 28 dice: “a quien anunciamos, amonestando a todo hombre, y enseñando a todo hombre en toda sabiduría, a fin de presentar a todo hombre perfecto en Cristo Jesús”. David Jang señala dos verbos clave en este pasaje: “anunciar” y “enseñar”. El creyente, a la vez que proclama el evangelio, también debe profundizar en su significado y enseñar a otros para formarlos. Ambas tareas corresponden a la razón de ser de la iglesia y coinciden con la gran comisión de Mateo 28, donde Jesús ordena predicar el evangelio a todas las naciones, hacer discípulos, enseñar la Palabra y bautizar en el nombre de la Trinidad. Esta es, según el Pastor David Jang, la misión esencial de la iglesia.

Ahora bien, ¿cómo el creyente puede llevar a cabo esta misión? Según el versículo 29 de Colosenses 1, Pablo declara que se esfuerza “según la potencia de él, la cual actúa poderosamente en mí”. El Pastor David Jang explica que “el que obra poderosamente” es el Espíritu Santo, enfatizando que Pablo no predicaba basándose en sus propias fuerzas o conocimientos, sino que resistía el sufrimiento, enfrentaba peligros, anunciaba el evangelio, levantaba iglesias y guiaba a los creyentes hacia la madurez, todo ello por el poder que moraba en él. En este contexto, David Jang menciona con frecuencia 1 Corintios 3:16 y 6:19, pasajes que aluden a que “nosotros somos el templo de Dios y que el Espíritu de Dios habita en nosotros”. Para el creyente, comprender que ya no está bajo el control de los valores y deseos de este mundo, sino que es el templo sagrado que alberga el Espíritu Santo, es un entendimiento fundamental.

Así, el hecho de que el Espíritu Santo more en nosotros sirve como la evidencia decisiva de la salvación, pero también como principio esencial de nuestra vida diaria. El Pastor David Jang subraya que la doctrina de la morada del Espíritu Santo no debe quedarse en el plano teórico o conceptual, sino traducirse en la práctica de “escuchar la voz del Espíritu” y “dar fruto” en la vida cotidiana. Cita Gálatas 5:22-23 para mencionar el “fruto del Espíritu” (amor, gozo, paz, paciencia, benignidad, bondad, fe, mansedumbre, dominio propio), subrayando que estos rasgos del carácter son el fruto genuino que se manifiesta en el creyente cuando el Espíritu actúa efectivamente en él.

Además, el Pastor David Jang destaca la importancia del término “mayordomo” al pensar en la morada del Espíritu Santo y la tarea de los creyentes. En Colosenses 1:25, Pablo dice: “De la cual fui hecho ministro, según la administración de Dios que me fue dada para con vosotros”. En la versión NIV en inglés, la palabra “administración” se traduce como stewardship (mayordomía). Esto se relaciona con la idea de que somos como siervos encargados de administrar los bienes de un amo, de modo que todo lo que poseemos –nuestras capacidades, recursos, tiempo e incluso el evangelio– nos es confiado por Dios, y tenemos la responsabilidad de emplearlo fielmente para la proclamación del evangelio, el servicio al prójimo y la edificación del reino de Dios. De acuerdo con David Jang, esta es la actitud que exige la morada del Espíritu Santo en el creyente.

En ocasiones, las iglesias y los cristianos pueden caer en la apatía o el desánimo espiritual, y el Pastor David Jang afirma que esto se debe a la percepción errónea de que “depende de mí hacer todo” o a la impresión de que “servir a la iglesia requiere demasiados sacrificios y sufrimientos”. Sin embargo, tal como demuestra la vida de Pablo, la verdadera fuerza transformadora proviene de “aquél que obra poderosamente en mí”, que no es otro que el Espíritu Santo. Incluso si Pablo está en prisión, el evangelio sigue extendiéndose en lugares como la iglesia de Colosas o Filipos, y ello no se debe a sus propias cualidades, sino a “la capacidad de Dios”. Por eso, el Pastor David Jang insiste en la importancia de “confiar en el Espíritu Santo y de ser consciente, en todo momento, de Su presencia en nosotros”. Si intentamos levantar la iglesia por medio de nuestras fuerzas, inevitablemente nos toparemos con límites e inconvenientes.

El Pastor David Jang menciona varios testimonios de primera mano en diferentes países y contextos de misión, narrando ejemplos en que la intervención concreta del Espíritu ha abierto puertas aparentemente imposibles, ha fortalecido a los creyentes en medio de la persecución y ha hecho que la iglesia crezca a pesar de dificultades extremas. Esto confirma que “el sufrimiento por servir al Señor nunca es en vano”, tal como proclamó Pablo, porque el Espíritu Santo sigue obrando hoy. En 2 Corintios 4, Pablo declara: “Estamos atribulados en todo, pero no angustiados; en apuros, pero no desesperados”. Así, para el que está lleno del Espíritu Santo, ninguna adversidad o persecución podrá detener el resurgir de la esperanza y de la fe. Para el Pastor David Jang, ese es el “privilegio y poder” que distingue al creyente.

Además, David Jang exhorta a que los creyentes no se limiten a “aguantar el sufrimiento”, sino que asuman con gozo la tarea de edificar la iglesia, servir al prójimo y proclamar el evangelio. En la carta a los Filipenses, Pablo llama a “regocijarse” incluso estando en prisión, porque esa labor de difusión del evangelio y edificación de la comunidad eclesial es una fuente de profunda alegría. El Pastor David Jang ha observado que muchos líderes eclesiales y creyentes en situaciones precarias, sin recursos económicos o sometidos a persecución, experimentan una gran felicidad al congregarse y ofrecer su servicio. Una felicidad que no se explica con la lógica terrenal, sino que es “un don de Dios posible solo porque el Espíritu Santo está con nosotros”.

Así, en Colosenses 1:24-29 se entrelazan diversos temas: “sufrimiento y gloria”, “el misterio del evangelio”, “la morada del Espíritu Santo y la mayordomía del creyente” y “la proclamación del evangelio y la formación de los santos”. Y el punto de unión de todos ellos es, en última instancia, la muerte y resurrección de Jesucristo y la presencia de Su Espíritu en nosotros. El Pastor David Jang concluye enfatizando: “Debemos aferrarnos a esta verdad y levantarnos”. Aunque la senda de la fe no sea un camino de rosas, es la senda que el Señor mismo recorrió y en la que el Espíritu Santo camina a nuestro lado. Con esa certeza, alcanzaremos finalmente la gloria. Reflexionar profundamente en las enseñanzas de Colosenses ayuda a vivir no como peces muertos arrastrados por la corriente, sino con una vida vibrante, repleta de gozo, gratitud y esperanza, según el Pastor David Jang.

Finalmente, el Pastor David Jang retoma esta enseñanza remarcando que todos los creyentes deberían, al igual que Pablo, “regocijarse en las aflicciones” y cumplir fielmente el ministerio que se les ha encomendado. Si nuestro servicio a la iglesia y en el campo misionero contribuye, en última instancia, a que el misterio de “Cristo en vosotros” alcance a muchas almas, entonces ningún sufrimiento será en vano. Este es el núcleo del mensaje del Pastor David Jang: “participar en el sufrimiento con gozo, servir a la iglesia con el poder del Espíritu Santo y contemplar la gloria venidera”. Es un mensaje que puede rastrearse no solo en Colosenses, sino también en Efesios, Filipenses, Romanos y 2 Corintios, expresando la esencia de la teología paulina que el Pastor David Jang exhorta a los creyentes de hoy a redescubrir y practicar.

En última instancia, en este breve pasaje de Colosenses 1:24-29, encontramos el plan de salvación que Dios preparó desde antes de la creación, el misterio del evangelio, la misión de la iglesia de “completar lo que falta” de los padecimientos de Cristo con gozo, y la fuerza del Espíritu Santo que nos capacita para vencer toda aflicción y difundir el evangelio. Si logramos asimilar estas verdades, nuestra vida de fe dará un salto a otro nivel. “Recordad: si el Espíritu de Cristo no mora en vosotros, no sois de Cristo; pero si Él está en vosotros, os conducirá a la gloria”, afirma con vehemencia el Pastor David Jang, subrayando que vivir plenamente la presencia del Espíritu es el único y seguro camino para el creyente. Y esa es precisamente la invitación que el Pastor David Jang hace a la iglesia actual: llevar estos principios a la acción y al estilo de vida cotidiano, pues constituyen el fundamento auténticamente evangélico que todo cristiano debe encarnar.

복음의 비밀 – 장재형(장다윗)목사

  1. 고난에 대한 바른 이해와 영광의 소망

장재형목사가 전하는 골로새서 1장 24절부터 29절까지의 말씀을 깊이 묵상해 보면, 사도 바울이 보여 준 ‘고난’에 대한 이해가 얼마나 중요한지를 절감하게 된다. 목사는 여러 설교와 강의를 통해 고난은 결코 헛된 것이 아니며, 하나님의 구원 계획 속에서 반드시 영광을 동반하는 과정이라는 사실을 강조한다. 이것은 단순히 고통을 긍정한다거나 고난 자체를 미화한다는 뜻이 아니라, 그리스도인으로 살아갈 때 겪게 되는 고난이 우리 안에 숨겨진 ‘영광’을 드러내는 길임을 알려 주는 가르침이다. 특히 골로새서 1장 24절의 “내가 이제 너희를 위하여 받는 괴로움을 기뻐하고”라는 사도 바울의 고백은, 믿는 자들에게 닥쳐오는 고난을 어떻게 대해야 하는가에 대한 훌륭한 지표가 된다. 목사는 여기서 바울이 고난을 대하는 태도를 ‘기쁨’으로 요약함으로써, 세상적인 시각과 달리 믿음 안에서 극심한 환란이나 역경에 처했을 때조차도 낙심하거나 주저앉지 않고 오히려 그 고난의 의미를 발견하며, 그것이 궁극적으로 영광을 향해 가는 통로임을 되새기라고 역설한다.

장재형목사는 사도 바울이 고린도후서, 로마서 등 여러 서신에서 보여 주는 고난 이해를 함께 살펴보길 권면한다. 예컨대 로마서 8장 18절에 언급된 “생각하건대 현재의 고난은 장차 우리에게 나타날 영광과 비교할 수 없도다”라는 말씀은, 고난과 영광이 긴밀히 연결되어 있음을 보여 준다. 또한 고린도후서1장에서는 바울이 고난을 통해 더 깊이 하나님을 의뢰하게 되었고, 이를 통해 위로를 경험하게 되었음을 고백한다. 장재형목사는 바울의 이런 고백이 단지 사도 개인의 체험이 아니라, 모든 성도에게 주어진 ‘믿음의 법칙’임을 강조한다. 즉, 고난이 올 때 그저 슬픔이나 좌절만이 아니라, 고난이 영광으로 이어지는 하나님의 신비로운 경륜을 신뢰하기에 기대와 소망으로 인내할 수 있다는 것이다.

바울은 직접 전도하고 개척한 교회가 아니었던 골로새교회 성도들에게조차도, 자기가 지금 감옥에 갇혀 있는 중에도 전혀 복음이 멈추지 않음을 전해 준다. 장재형목사는 빌립보서를 인용하며, 바울은 감옥이라는 극한 상황에서도 “도리어 복음이 더 진보되었다”고 외치는 모습을 보여 준다고 설명한다. 이를 통해 장재형목사는, 고난이 찾아올지라도 그것은 결코 하나님의 일을 중단시키는 도구가 될 수 없고, 하나님의 목적을 이루는 데에 쓰여진다는 사실을 재차 깨닫게 된다고 말한다. 결국 고난은 주의 나라를 위한 고난이며, 십자가를 통과한 주님의 부활에 참여하게 되는 거룩한 길이라는 것이다. 주님이 걸어가신 십자가의 길이 없이는 부활도 없고, 영광도 없음을 장재형목사는 여러 차례 언급한다. 그리스도인이라면 이 길을 걸어가는 것이 마땅하며, 여기서 바울은 “이 고난에 동참하는 기쁨”을 노래하고 있다는 점이 핵심이다.

나아가, 골로새서 1장 24절에서 언급된 “그리스도의 남은 고난을 그의 몸된 교회를 위하여 내 육체에 채우노라”라는 표현은, 사도 바울이 자신의 고난을 그리스도의 몸된 교회를 세우고 확장하는 데에 기쁘게 ‘채워 넣는’ 것으로 보았음을 시사한다. 장재형목사는 주님의 십자가 사건으로 이미 완전한 구원이 이루어졌으므로 ‘남은 고난’이 있다는 표현이 다소 모순처럼 들릴 수 있지만, 여기서 말하는 ‘남은 고난’이란 궁극적인 구원 사역이 세상 가운데 교회를 통해 펼쳐지고 완성되어 가는 과정에서 교회 공동체가 함께 짊어지고 동참해야 할 몫임을 자세히 풀어 낸다. 주님이 십자가에서 죽으시고 부활하심으로 구원의 문을 완전히 여셨지만, 세상 끝날까지 교회가 복음을 전하고 주님의 길을 걸으며 겪는 모든 수고와 어려움이 아직 남아 있다는 것이다. 그것을 바울은 자기 몸에 채워가면서, 곧 교회를 세우기 위해 자신이 당하는 모든 환란과 역경을 오히려 기쁨으로 여기게 된다. 이것이야말로 고난이 영광으로 바뀌는 실체적 과정이라는 점에서, 장재형목사는 성도들이 이런 바울의 삶과 고백을 꼭 마음에 새겨야 한다고 역설한다.

결국 장재형목사가 말하는 진정한 고난 이해는 단순한 “인내”나 “긍정”이 아니라, 구체적인 ‘영광’과 직결된 신앙적 통찰이다. 고난이 미치는 영향, 고난이 이끄는 방향, 고난이 가져다 주는 결과를 모두 살피면서 고난을 영광의 문으로 보고, 또한 그 고난을 통해 더욱 하나님을 의뢰하는 태도가 반드시 필요함을 거듭 강조한다. 여기에 더해 장재형목사는 고후 4장을 자주 언급하는데, 바울이 “우겨쌈을 당해도 싸이지 않으며, 답답한 일을 당해도 낙심하지 않는다”고 말하는 대목은, 믿음 안에서 고난을 이해하는 자의 기백을 여실히 보여 준다고 설명한다. 이는 구원받은 성도의 신분이 하늘에 속했고, 그리스도의 영이 함께하시며, 장차 부활과 영원한 나라가 기다린다는 확고한 확신 위에서만 가능한 태도라는 것이다. 그리고 이 태도는 결코 뜬구름 잡는 맹목적 희망이 아니라, 십자가와 부활이라는 구체적 사건 위에 세워진 ‘실체적 소망’임을 장재형목사는 강조한다.

나아가 바울이 골로새서 1장 25~27절에서 구원의 신비를 다시 한 번 언급하면서, 이 복음의 비밀이 만대 전부터 감추어져 있던 것이라고 표현하는 부분 또한 매우 인상적이다. 장재형목사는 과거부터 하나님의 구원 계획이 인류 역사 속에 감추어져 있었으며, 때가 차서 예수 그리스도를 통해 분명하게 드러났다는 사실이야말로, 성도들에게 가장 큰 확신과 기쁨을 주는 메시지라 강조한다. 이처럼 예수 그리스도의 십자가와 부활로 말미암아 완성된 구원의 문이 모든 이방인에게 열리게 되었고, 그 결과 골로새교회나 오늘날의 교회까지도 이 복음 안에 포함되어 있다는 것이다. 그러므로 이 복음이 궁극적으로‘영광의 소망’이 된다고 말할 수 있다. 장재형목사는 사도 바울이 구원을 ‘비밀’(미스테리온)이라 칭한 이유를 설명하며, 우리는 그 오묘한 비밀이 드러난 시대에 살고 있다는 점에서 감사와 감격을 누려야 한다고 권면한다.

결론적으로, 장재형목사는 “현재의 고난은 결코 끝이 아니며, 하나님께서 예비하신 영광과 비교할 수 없는 작은 가벼움에 지나지 않는다”는 사도 바울의 가르침을 성도들이 반드시 기억해야 한다고 거듭 말한다. 고난을 만나도 그것으로 끝나지 않고, 반드시 하나님의 구원 경륜 안에서 영광으로 이어진다는 이 믿음이 없이는, 그리스도인으로서 세상의 좁은 길, 십자가의 길을 걸어가기가 어렵기 때문이다. 이 길은 곧 부활과 상급, 그리고 영광으로 이어지는 길이다. 그래서 골로새서 1장 24절의 “괴로움을 기뻐한다”는 바울의 역설적 표현이 가능해지며, 장재형목사는 이것이 곧 참된 그리스도인의 자세라고 가르친다.

  •  하나님의 구원 계획, 복음의 비밀

장재형목사는 골로새서 1장 26절과 27절에 언급된 “만세와 만대로부터 옴으로 감취었던 것인데 이제는 그의 성도들에게 나타났고”라는 구절을 매우 중요하게 본다. 여기서 말하는 ‘비밀’은 헬라어로 ‘미스테리온’이며, 이 단어가 ‘미스터리’의 어원이 된다. 바울은 이 비밀을 “이제는 그의 성도들에게 나타났다”고 선포하는데, 장재형목사는 이것이 곧 구약 시대로부터 예언되어 왔지만 온전히 파악되지 않았던 하나님의 ‘인간 구원 계획’이 십자가와 부활 사건으로 결정적 모습을 드러낸 것을 의미한다고 설명한다. 실제로 에베소서 3장에서도 비슷한 맥락으로 “감추어져 있던 비밀이 이방인에게까지 드러났다”고 말하는데, 장재형목사는 이 바울의 논지를 따라 하나님의 구원 계획이 이스라엘만의 구원에 머무는 것이 아니라 온 인류로 확장되는 과정에 주목해야 한다고 강조한다.

특히 장재형목사는 로마서 9~11장을 거론하며, 본래 선택된 백성이었던 이스라엘이 복음을 받아들이지 않음으로써 이 복음이 이방인들에게로 확장되었다는 바울의 선포가 얼마나 역설적이면서도 오묘한 하나님의 경륜인지를 풀어 준다. 예수 그리스도를 거부한 이스라엘의 불신앙은 하나님의 구원 계획을 가로막은 것이 아니라, 오히려 복음이 온 세상으로 뻗어나가는 ‘계기’가 된 것이다. 이 사실을 바울은 “깊도다 하나님의 지혜와 지식의 풍성함이여”(롬11:33)라고 노래한다. 장재형목사는 이 대목이 하나님의 ‘비밀’이 어떻게 인류 역사 속에서 펼쳐져 왔는가를 잘 보여 준다고 말한다. 즉, 하나님은 오래전부터 인류를 구원하겠다는 계획을 가지고 계셨고, 그것이 특정 민족이나 특정 집단에만 제한되는 것이 아니라 온 세계에 열려 있다는 점이, 복음의 본질적‘보편성’을 드러낸다는 것이다.

이어 골로새서 1장 27절에서 사도 바울은 이 비밀의 핵심을 “너희 안에 계신 그리스도”라고 정의한다. “곧 영광의 소망이라”고 이어지는데, 장재형목사는 여기서 “너희 안에 계신 그리스도”를 특별히 강조한다. 즉, 복음의 비밀은 외부에만 존재하는 지식이나 사실이 아니라, 믿는 자의 내면에 내주하시는 성령을 통해 우리 삶 가운데 실제로 작동하는 능력이며 관계라는 것이다. 이 관계성은 곧 성도가 새로운 피조물로 살아가는 동력이 된다. 바울은 로마서 8장에서 “누구든지 그리스도의 영이 없으면 그리스도의 사람이 아니라”고 단언하며, “그리스도께서 너희 안에 계시면 몸은 죄로 인하여 죽은 것이나 영은 의를 인하여 산 것이다”라고 말한다. 장재형목사는 바로 이 내주하시는 영이 구원의 핵심 동력임을 지속해서 설파한다. 이는 단순히 회개 기도를 드리거나 어떤 교리를 수용하는 것만으로 끝나는 것이 아니라, 실제로 삶의 모든 영역에서 우리를 변화시키는 능력을 의미한다는 것이다.

이처럼 복음의 비밀은 “나의 죄가 단번에 사함받고 영원히 구원받았다”는 선언에 그치지 않고, 그리스도와의 친밀한 연합, 성령의 거룩한 내주, 그리고 영원한 생명에 대한 소망을 포함한다. 장재형목사는 이것이 골로새서 1장 26~27절에 담긴 핵심이라고 설명한다. 특히 바울이 “이제는 그의 성도들에게 나타났다”고 말할 때, 그 대상은 유대인, 이스라엘 백성만이 아니라 이방인까지 아우른 보편적 교회를 가리킨다. 그렇기 때문에 골로새교회와 같은 이방인 중심의 교회도 이 구원의 신비에 동참하게 되었고, 같은 방식으로 오늘날 전 세계의 교회도 이 은혜에 참여하게 되었다는 것이다. 이 사실 자체가 바로 “복음의 비밀이 만민에게 확장되었다”는 증거다.

장재형목사는 이토록 거대한 하나님의 구원 경륜이 내 삶까지 임했다는 사실에서 비롯되는 감격을 놓치지 말라고 역설한다. 사람은 대개 자신의 신앙이 단지 개인적이고 우연한 선택이나 주변 환경의 영향에서 비롯되었다고 여기기 쉽지만, 실상은 하나님께서 만대 전부터 준비하신 구원 계획 안에 우리가 포함되었다는 경이로움을 반드시 깨달아야 한다는 것이다. 이것을 깨달을 때, 우리의 신앙 생활은 단순한 종교적 활동이 아니라, 장엄한 하나님의 구원 역사 속에 동참하는 행위로 인식된다. 그러므로 장재형목사는 “복음의 비밀이 성도들에게 나타났다”는 이 한 문장 속에 얼마나 풍부한 의미가 담겨 있는지를 깊이 묵상하라고 거듭 강조한다.

나아가, 이 비밀을 알지 못하는 세상에 대해 바울은 사도행전 28장에서 “눈이 있어도 보지 못하고 귀가 있어도 듣지 못한다”고 탄식하는 모습을 보인다. 장재형목사는 이 불신앙의 신비를 가리켜, “하나님이 그렇게도 환히 열어 놓으신 복음의 길을 보지 못하는 안타까움”이라고 표현한다. 실제로 장재형목사는 여러 나라를 다니며 선교하고 목회자들을 세우는 과정을 통해, 복음이 전해졌음에도 듣지 못하는 자들, 눈이 있어도 보지 못하는 자들을 많이 보았다고 말한다. 그러나 동시에 하나님의 은혜를 받아들여 한없이 기뻐하는 자들도 많이 목격했다고 증언한다. 결국 복음의 비밀을 ‘보게 되는가, 보지 못하는가’는 인생의 결정적 분기점이 되며, 이것이 ‘구원에 이르는 지혜’이기도 하다. 이처럼 복음의 비밀은 감추어져 있으나 결코 완전히 막혀 있는 것이 아니라, 믿음으로 문을 두드리는 자들에게 열려 있으며, 그 영광의 한복판으로 안내하는 하나님의 선물이라는 것이 장재형목사의 가르침이다.

결론적으로, 장재형목사는 오늘날 교회가 이 복음의 비밀을 다시 한 번 되새겨야 한다고 촉구한다. 그것은 단순히 어느 교파나 교리의 문제가 아니라, 하나님이 창세 전부터 구상하셨고, 예수 그리스도의 십자가와 부활로 완성되었으며, 지금도 성령을 통해 온 세상에 적용되고 있는 광대한 구원의 서사를 말한다. 그리고 그 서사 속에 바로 우리의 신앙이 위치한다. 이런 의식이 분명해질 때, 신앙 생활은 그저 일상적인 의무나 습관에서 벗어나, 초월적이고 영광스러운 구원의 드라마에 참여하는 기쁨으로 가득 찬다. 이것이야말로 장재형목사가 말하는 “복음의 비밀을 붙잡은 성도”의 모습이라 할 수 있다.

  •  성령의 내주와 성도의 삶

장재형목사는 골로새서 1장 28절과 29절의 내용을 통해, 궁극적으로 사도 바울이 지향하는 ‘성도의 완전한 모습’에 대해 강조한다. “우리가 그를 전파하여 각 사람을 권하고 모든 지혜로 각 사람을 가르치며 그리스도 안에서 완전한 자로 세우려 함이라”(골 1:28)는 구절이 그것이다. 장재형목사는 여기서 두 가지 핵심 동사가 눈에 띈다고 말한다. 바로 ‘전파한다’와 ‘가르친다’는 것인데, 성도는 복음을 전파하는 전도자요 동시에 그 복음의 깊은 뜻을 다른 사람에게 가르쳐서 양육하고 세워 가는 스승의 역할까지 겸해야 한다는 것이다. 이것은 예수께서 마태복음 28장에서 명하신 대사명과도 정확히 일치한다. 즉, 모든 족속에게 복음을 전파하고, 그들을 제자로 삼아 가르치며, 삼위일체의 이름으로 세례를 주라는 명령이 곧 교회의 존재 이유라는 점을 장재형목사는 거듭 강조한다.

그렇다면 성도가 어떻게 이 사명을 감당할 수 있는가? 바로 골로새서 1장 29절에서 바울이 고백하듯이 “내 속에서 능력으로 역사하시는 이의 역사를 따라” 최선을 다해 수고하기 때문이라고 장재형목사는 설명한다. 여기서 ‘능력으로 역사하시는 이’는 분명 성령이시며, 바울은 자신이 가진 지식이나 힘으로 복음을 전하는 것이 아니라, 내주하시는 성령의 능력으로 말미암아 고난을 견디고, 위험을 감수하고, 복음을 전파하며, 교회를 세우고, 성도들을 온전함으로 이끌었다는 것을 분명히 보여 준다는 것이다. 이 맥락에서 장재형목사는 고린도전서 3장 16절, 6장 19절을 자주 언급한다. “너희는 너희가 하나님의 성전인 것과 하나님의 영이 너희 안에 거하시는 것을 알지 못하느냐”라는 구절을 통하여, 믿는 자들은 더 이상 세상의 가치관과 욕망에 지배되지 않고, 성령을 모신 하나님의 거룩한 전(殿)이 되었음을 분명히 이해해야 한다고 말한다.

이처럼 성령이 내주하신다는 사실은 구원을 받았음을 가리키는 결정적인 증거인 동시에, 성도의 매일의 삶을 이끌어 가는 근본 원리이기도 하다. 장재형목사는 성령 내주의 교리를 단지 교회에서 배우는 ‘개념’이나 ‘이론’으로 두지 말고, 실제 삶에서 어떻게 성령의 음성을 듣고, 성령의 열매를 맺을 수 있는가를 날마다 고민하고 실천해야 한다고 역설한다. 갈라디아서 5장 22~23절에 언급된 ‘성령의 열매’는 사랑, 희락, 화평, 오래 참음, 자비, 양선, 충성, 온유, 절제 등인데, 이는 성령이 실제로 우리 안에서 활동하실 때 맺게 되는 성품들이며, 믿는 자로서 자아가 변화되는 가장 분명한 지표이기도 하다는 것이다.

장재형목사는 또한 성령의 내주와 함께, 우리가 이 땅에서 감당해야 할 사역을 생각할 때 ‘청지기’라는 표현이 중요하다고 말한다. 골로새서 1장 25절에서 바울은 “내가 교회의 일꾼 된 것은 하나님이 너희를 위하여 내게 주신 경륜을 따라”라고 말하는데, NIV 성경에서는 이 ‘경륜’을 ‘청지기직(stewardship)’으로도 해석한다. 이는 마치 집주인의 재산을 맡아 관리하는 종처럼, 우리의 삶과 재능, 물질, 시간, 그리고 복음 자체를 포함한 모든 것을 하나님께로부터 위탁받아 ‘잘 관리하고 운영해야 하는 책임’을 의미한다. 장재형목사는 이 청지기적 책임감이야말로 성령이 내주하시는 성도에게 요구되는 필연적 태도라고 주장한다. 다시 말해, 내가 가진 모든 것이 사실은 나의 소유가 아니라 하나님께서 맡기신 것이며, 나는 그것을 ‘복음 전파’와 ‘이웃 섬김’, 그리고 ‘하나님 나라를 세워 가는 일’에 충성스럽게 사용해야 한다는 것이다.

장재형목사는 현대 교회와 성도들이 종종 영적 권태나 무력감에 빠질 때가 있는데, 이는 “나 혼자서 모든 것을 책임져야 한다”거나, 혹은 “교회를 섬기는 일은 너무 많은 희생과 고난을 요구한다”는 식의 인간적인 한계 인식 때문이라고 말한다. 그러나 사도 바울이 보여 준 모습에서 보듯이, 진정한 변혁의 힘은 우리 ‘속에서 능력으로 역사하시는 이’로부터 오며, 그분이 곧 성령이심을 잊지 않아야 한다고 거듭 강조한다. 바울이 감옥에 갇혀 있더라도, 결국 골로새교회나 빌립보교회 등 곳곳에 복음이 자라나는 것은 ‘바울 개인의 역량’이 아니라 ‘하나님의 능력’에 달려 있었음을 확인하게 된다. 그래서 장재형목사는“성령을 의지하라, 내주하시는 성령을 매순간 인식하라”는 권면을 아끼지 않는다. 성령 없이 자신의 힘으로만 교회를 세우려고 한다면, 그 시도는 반드시 한계에 부딪치고 파열음을 낼 수밖에 없다는 것이다.

장재형목사가 여러 차례 선교지와 각국 교회에서 경험한 사례들 역시, 성령의 능력이 실제적으로 역사하는 모습을 보여 준다. 어떤 곳에서는 복음을 전하기 어려운 상황에서도 성도들이 기도함으로 놀라운 문이 열리고, 박해 가운데서도 교회가 오히려 더욱 견고히 서는 일들을 생생하게 체험했다고 증언한다. 그렇기에 그는 “주를 섬기는 가운데 닥쳐오는 고난은 결코 헛되지 않다”는 바울의 선언이 오늘날에도 여전히 유효하며, 교회의 사역을 위해 헌신하는 모든 자들에게도 동일한 의미가 있음을 강조한다. 고후 4장에서 바울이 “우리는 사방으로 우겨쌈을 당해도 싸이지 아니하며, 답답한 일을 당하여도 낙심하지 아니한다”고 노래하는 것처럼, 성령으로 충만한 자는 어떠한 역경과 박해 속에서도 “내주하시는 성령의 도움”으로 다시 일어날 수 있다. 이 사실이야말로 성도의 특권이자 능력이라는 것이다.

나아가 장재형목사는 성도들이 단순히 ‘고난을 이겨 내는 존재’로 머무르는 것이 아니라, 오히려 능동적으로 교회를 세우고 이웃을 섬기며, 복음을 전하는 기쁨을 누려야 한다고 역설한다. 빌립보서에서 바울은 감옥에서도 “기뻐하라”고 말하는데, 이는 복음 전파와 교회 공동체를 섬기는 일 자체가 이미 기쁨이 되기 때문이다. 실제로 장재형목사가 만난 많은 교회 리더와 성도들은, 경제적으로 넉넉하지 않거나 핍박이 심한 상황에서도 오히려 예배와 헌신을 통해 큰 기쁨을 경험했다고 한다. 이는 결코 세상적인 논리로 설명할 수 없는 차원의 기쁨이며, “성령이 함께하시기 때문에 가능한 하나님의 선물”이라고 그는 말한다.

이처럼 골로새서 1장 24절부터 29절까지는 ‘고난과 영광’, ‘복음의 비밀’, ‘성령의 내주와 청지기직’, 그리고 ‘복음 전파와 성도 양육’이라는 주제들을 한데 아우르고 있으며, 그 모든 주제를 하나로 묶는 핵심 연결 고리는 결국 예수 그리스도의 십자가와 부활, 그리고 그분의 영이 우리 안에 내주하신다는 사실이다. 장재형목사는 여기서 끝으로 강조하기를, “이제 우리가 이 진리를 붙들고 일어서야 한다”라고 한다. 믿음의 길이 결코 꽃길만은 아니지만, 그 길이 좁고 험해도 주님이 앞서 가신 길이며, 성령이 동행하시는 길이라는 것을 알고 걷는다면, 궁극적인 영광의 자리에 이르게 될 것이라는 확신을 가져야 한다. 골로새서의 이 말씀을 깊이 붙잡고 묵상할 때, 성도의 삶은 비로소 죽은 물고기처럼 세파에 떠밀려 다니는 인생이 아니라, 기쁨과 감사, 소망으로 가득 찬 역동적 삶이 될 수 있다고 장재형목사는 격려한다.

끝으로 장재형목사는 이 말씀을 인용하면서, 모든 성도가 바울처럼 “괴로움을 기뻐한다”는 역설 속에서 주어진 직분을 충성스럽게 감당하길 축원한다. 우리가 교회 공동체와 선교 현장을 섬기는 모든 수고가, 궁극적으로 “너희 안에 계신 그리스도”라는 복음의 신비를 더 많은 영혼에게 전하는 일에 기여한다면, 그 어떠한 고난도 결코 헛되지 않다는 것이다. 이것이 바로 “기쁨 안에 고난에 동참하고, 성령의 능력으로 교회를 섬기며, 영광을 바라보는” 장재형목사의 핵심 메시지다. 그 메시지는 골로새서뿐 아니라 에베소서, 빌립보서, 로마서, 고린도후서 등 바울의 다른 서신을 통틀어 반복해서 확인할 수 있는 바이고, 장재형목사가 오늘날의 성도들에게 거듭 역설해 주는 바울 신학의 정수이기도 하다.

결국 우리가 골로새서 1장 24절부터 29절까지라는 짧은 본문 안에서도, 하나님이 만세 전부터 마련하신 구원 계획과 복음의 비밀, 그리고 그리스도의 남은 고난을 기쁨으로 채우는 교회의 사명, 마지막으로 내주하시는 성령으로 말미암아 모든 고난을 이겨 내고 복음을 전하는 동력을 발견하게 된다면, 믿음의 생활은 전혀 새로운 차원으로 도약하게 된다. 장재형목사는 “기억하라. 너희 안에 그리스도의 영이 있어야 너희가 그리스도의 사람인 것이다. 그리고 그 영이 너희를 영광으로 인도하시리라”고 거듭 강조함으로써, 성령으로 충만한 삶이야말로 성도로서 걸어가야 할 유일하고도 확실한 길임을 확신에 찬 어조로 전한다. 바로 이것이 장재형목사가 여러 차례 반복하고, 또 성도들에게 실제로 행하길 독려해 온 삶의 자세이자, 오늘을 살아가는 모든 성도가 교회 안팎에서 실천하고 체화해야 할 복음적 삶의 기초라는 점을 분명히 밝힌다.

예수 그리스도의 정체성 – 장재형목사(장다윗)

장재형목사가 선포하는 성육신 메시지는 네 복음서가 제시하는 복합적 예수상을 통해 지금의 신앙인과 교회, 그리고 세상을 향해 이렇게 말한다.

예수 그리스도의 정체성

네 복음서는 같은 주인공이신 예수 그리스도를 각각 다른 배경, 다른 시각, 다른 해석의 틀로 제시한다. 마태, 마가, 누가, 요한이라는 복음서 저자들은 예수님을 자기 시대와 청중, 상황에 맞게 증언하면서도, 한 인물 안에 공존하는 여러 면모를 흥미롭게 기록한다. 초대 교회 이후 오랜 전통 속에서, 그리고 교부들과 중세시대 신학자들에 이르기까지, 요한계시록에 등장하는 네 생물(사자, 송아지, 사람, 독수리)을 복음서 해석에 접목하려는 시도가 지속되었다. 그것은 단순한 상상이나 장식이 아니라, 각 복음서가 예수님을 어떤 분으로 그리고 있는가를 효율적으로 설명하기 위한 하나의 해석적 상징체계였다.

장재형(장다윗, 올리벳대학교설립) 목사는 이러한 전통을 활용하면서, 네 복음서를 통해 드러나는 예수님의 정체성을 좀 더 직관적이면서도 체계적으로 소개한다. 그는 마태복음을 사자에, 마가복음을 송아지에, 누가복음을 사람에, 요한복음을 독수리에 대응시키는 해석틀을 따른다. 사자라 함은 유대인의 왕으로 오신 예수 그리스도의 권세를 상징하고, 송아지는 종으로서 헌신하고 희생하는 모습, 사람은 인자로서 인간의 약함과 고통을 직접 겪으시는 공감 능력을, 독수리는 하늘로부터 내려오는 초월적 신성을 대표한다.

마태복음은 예수님의 왕권을 강조한다. 유대인의 왕, 메시아가 오신 장면을 아브라함에서부터 시작하는 족보로 풀어내며, 다윗 왕조의 계승자이자 아브라함의 후손으로서의 예수를 드러낸다. 이는 구약의 예언이 성취되는 사건이며, 유대 민족이 고대하던 메시아가 바로 예수님임을 증언한다. 따라서 왕권과 권위를 상징하는 사자 이미지가 자연스럽게 연결된다.

마가복음은 ‘곧’(εὐθὺς)이라는 부사가 빈번하게 등장하는 급속한 사건 전개가 특징이다. 예수님께서 기적을 베푸시고, 병든 자를 치유하시고, 때로는 바람과 바다를 잠잠케 하시는 일련의 행적이 빠른 호흡으로 제시된다. 그러나 그분의 모습은 이스라엘의 왕이라는 장엄함보다는 하나님 아버지의 뜻에 즉각적으로 순종하고, 모든 고통과 헌신을 감수하는 종의 모습이 두드러진다. 송아지 혹은 황소로 상징되는 희생적 봉사의 이미지는, 예수님께서 제자들의 발을 씻기시고, 가난한 이들을 돌보시며, 십자가에서 자신의 생명을 내어주신 극단적 섬김의 태도와 어우러진다.

누가복음은 예수님의 족보를 아담까지 거슬러 올라가며, 만민을 향해 열린 구원의 문을 소개한다. 누가는 가난한 자, 이방인, 세리, 여인, 병자 등 소외된 이들에게 친히 다가가 돌보시는 예수님을 활발히 그려내는데, 이는 예수님이 특정 민족이나 특정 계층만을 위해 오신 분이 아니라 온 인류를 위한 구세주임을 드러낸다. “인자(人子)”로 오신 예수님이 우리의 아픔을 함께 겪고, 인간의 연약함과 슬픔에 공감하신다는 메시지를 전하기에, 누가복음은 사람이라는 상징과 맞물려 있다.

요한복음은 한층 더 높은 차원, 혹은 신적인 권능이 가장 극적으로 드러나는 ‘독수리’의 시각에서 예수님을 소개한다. 태초부터 하나님과 함께 계셨고 곧 하나님이신 말씀이(로고스가) 육신을 입고 오셨다는 장엄한 선언은, 이 복음서가 예수님을 시간과 공간의 경계를 넘어 선재하시는 분, 만물을 창조하신 하나님 자신으로 부각한다. 그래서 요한복음은 예수 그리스도의 신성, 초월성을 매우 선명하게 제시하여, 독수리처럼 높은 곳에서 내려오신 존재라는 상징으로 이해된다.

네 복음서가 갖는 이 상징적 해석은 단순한 문학적 장치가 아니라, 예수님의 복합적인 정체성을 입체적으로 이해하는 데 도움이 된다. 예수님은 왕이자 종이시고, 인자이자 동시에 하나님이시다. 인간적인 약함을 체험하셨으나, 그 본질에서는 태초부터 계신 하나님과 동등하신 분이기도 하다. 장재형목사는 이를 통해, 우리가 한쪽 면에만 치우친 예수 이해를 넘어 전인격적이고 거시적인 관점에서 예수를 바라볼 수 있도록 안내한다. 현대 신앙인들도 왕이신 예수님 앞에 경외심을 갖는 동시에, 이웃을 섬기시는 예수님의 종의 모습, 죄인과 아픔을 함께 지시며 공감하시는 인자(사람)로서의 예수님, 그리고 하늘의 독수리처럼 위엄있게 내려오시는 신성을 가진 예수님을 고루 인식해야 한다는 것이다.

로고스와 태초의 신비

네 복음서 중 특히 요한복음은 “태초에 말씀이 계시니라”라는 장엄한 구절로 시작한다. 헬라어로 로고스(λόγος)라 불리는 “말씀” 개념을 끌어오는데, 이것이 유대인 독자뿐 아니라 헬라·로마 사상에 익숙한 독자들에게도 강력한 호소력을 지닌다. 헬라 철학자들은 우주 질서와 궁극적 진리를 관통하는 어떤 ‘불변의 원리’, ‘이성적 근거’를 로고스라 불러왔고, 스토아 철학이나 플라톤주의 전통에서도 로고스는 지극히 높은 지적 실재로 간주되었다.

그러나 요한복음은 이 헬라 철학적 개념을 창조적 방식으로 전용(轉用)한다. 흔히 관념적·추상적 이치로만 여기던 로고스가 실제 인격적 존재이며, 그것도 하나님과 함께 계셨을 뿐 아니라 곧 하나님 자신이라고 선언한다. 태초, 즉 창세기의 우주 창조 시점에서 이미 말씀이 계셨고, 만물이 그로 말미암아 지어진 바 되었으며, 지어진 것 중에 그가 없이 된 것이 하나도 없다는 파격적 메시지는 예수님이 단지 인간 스승이나 예언자가 아니라 창조와 역사의 주인이심을 밝힌다.

이런 구절이 기록된 배경은, 복음서가 예루살렘이라는 한 지역적·종교적 중심지를 뛰어넘어 로마제국 전역에 퍼져나가던 상황이었다는 데 있다. 사도행전 이후로 복음이 점차 헬라·로마 세계로 전해졌고, 이질적인 문화와 철학적 전통 속에서 복음을 해명해야 할 필요가 절실해졌다. 예수가 누구인지에 대해, 유대적 율법이나 메시아 사상에 익숙지 않은 이방인들에게도 적극적으로 설명해야만 했다. 그런 점에서 “그대들이 그토록 찾아왔던 보편적 진리, 즉 로고스가 사실은 인격을 가지신 예수 그리스도”라는 요한복음의 선포는 당대 지성인들에게 분명한 도전을 던졌다.

장재형목사는 요한복음이 들려주는 이 “로고스 신비”가 현대인에게도 여전히 유효하다고 말한다. 21세기에도 진리를 추구하는 과학자들, 철학자들, 예술가들, 지식인들이 있으며, 그들은 지적이고 합리적인 추론을 통해 우주와 생명의 근원을 파악하려 애쓴다. 그러나 기독교적 관점에서 볼 때, 궁극적 진리는 인격으로 존재하며, 그 인격은 예수 그리스도로 현현했다. 지적인 모색 자체가 나쁘다고 볼 수는 없지만, 참 진리에 도달하려면 하나님이 직접 보여주시는 ‘계시’에 열려 있어야 한다는 것이 기독교 신학의 핵심 논리다.

요한복음 1장 3절에 의하면 “만물이 그로 말미암아 지어진 바 되었으니”라고 말함으로써, 로고스와 창조의 관계를 못 박는다. 플라톤주의자나 스토아학파가 아무리 로고스를 숭상해도, 그들이 말하는 로고스가 실제 창조주 하나님과 동일하다고 보기는 어렵다. 요한복음은 명백히 예수 그리스도를 창조자 하나님으로, 그리고 역사와 미래의 주관자로 제시한다. 요한계시록에서도 예수님을 알파와 오메가, 처음과 나중, 시작과 끝으로 묘사하는 것은 같은 맥락이다.

결국 이 로고스 사상은 고대 철학의 언어를 빌려 복음이 가진 우주적 스케일과 신비를 선포하는 매우 독특한 전략이라 할 수 있다. 장재형목사는 이것을 “초대 교회가 헬라-로마 세계와 소통하기 위해 보여준 놀라운 신학적 통찰”이라고 해설한다. 그리스도의 정체성을 유대적인 메시야 개념에만 가두지 않고, 보편적 인류의 구주로 증언하려는 시도가 담긴 것이다.

말씀이 육신이 되심과 은혜와 진리의 충만

성육신(Incarnation)은 기독교 신앙의 핵심이다. 전능하신 하나님이 인간이 되셨다는 기이하고도 놀라운 사건은, 신약성경 전체를 관통하는 주제이자, 초대 교회 당시부터 이단 논쟁이나 교리 논쟁의 초점이기도 했다. 특히 요한복음 1장 14절은 “말씀이 육신이 되어 우리 가운데 거하시매…”라는 한 구절로 이 파격적 사건을 압축한다.

여기서 육신(sarx)은 헬라 사상에서 부정적으로 인식되곤 했다. 물질은 영혼보다 열등하고, 신적 존재는 더 고결하다고 보는 이원론적 사고가 팽배했기 때문이다. 그런데 기독교는 이런 사상 틀에서 벗어나, 하나님이 실제 ‘인간의 살과 피’를 입고 오셨다고 주장한다. 이는 “추상적 개념”이나 “신화적 현신(顯身)”이 아니라, 역사적 구체성 속에서 이뤄진 사건이다. 예수라는 이름의 사람, 갈릴리 나사렛 출신, 마리아의 아들로 자라나, 헬라어와 아람어, 히브리어가 혼재한 로마 치하 팔레스타인 땅에서 먹고 마시며 일하셨다.

장재형목사는 이를 “하나님의 극단적 자기 비움(Kenosis)”이라 표현한다. 빌립보서 2장 6~8절이 말하듯, 예수님은 근본 하나님의 본체이시나, 자신을 비워 종의 형체를 가지셨고 사람의 모양으로 나타나셨다. 신적인 영광에서 가장 비천한 인간의 자리로 내려오셨다는 점이 성육신의 본질이다. 세상 종교와 신화에서 신이 인간처럼 변장하거나 임시로 내려오는 이야기들은 많지만, 그 신들이 인간의 고통을 직접 체험하고, 또 끝내는 죽음에 이른다는 이야기는 찾아보기 힘들다.

말씀이 육신이 되었다는 말은 하나님이 우리와 ‘동일한 자리’에 서셨다는 의미이다. 갈증과 피로, 배고픔, 육체적 고통, 그리고 죽음이라는 인간의 필연적 한계까지 예수님이 똑같이 감당하셨다. 이 사실은 크게 두 가지 차원에서 의미가 있다. 하나는 죄로 인해 단절된 인간과 하나님 사이를 잇는 다리를 하나님 편에서 놓으셨다는 것이고, 다른 하나는 은혜와 진리가 충만한 구원의 시대가 본격적으로 열렸다는 사실이다.

요한복음 1장 14절 하반절은 “(우리가) 그의 영광을 보니 아버지의 독생자의 영광이요 은혜와 진리가 충만하더라”고 선언한다. 여기서 은혜(헬라어 χάρις)는 인간의 노력이나 자격이 아닌, 하나님의 전적인 선물이며, 진리(ἀλήθεια)는 영원히 변하지 않는 절대적 실재, 즉 하나님 자신을 가리킨다. 인간이 누구이기에 이런 은혜를 받고, 전 우주의 주인이신 하나님을 알 수 있단 말인가. 이는 오직 성육신으로만 가능한 기적이다.

장재형목사는 율법과 성육신을 대비시켜 설명하기도 한다. 율법은 죄가 무엇인지 드러내주고, 인간이 그 죄로부터 벗어나야 함을 가르친다. 그러나 율법 자체가 인류의 죄를 없애주지는 못한다. 죄를 깨닫게 만드는 기능은 있으나, 죄를 사하는 능력은 없다. 결국 인간은 율법 앞에서 모두가 죄인임을 자각할 뿐, 해결책을 스스로 찾을 수 없다. 이때 성육신하신 예수님이 ‘새 아담’으로 오셔서, 십자가와 부활을 통해 죄 문제를 근본적으로 해결하신다.

성육신을 이해할 때, 단지 신학적 교리로만 머물러서는 안 된다. 2천 년 전 이루어진 독특한 종교 사건이라고 여긴다면, 그 내면의 역동성을 놓치게 된다. 성육신은 오늘날에도 이어지는 하나님의 사랑 이야기이며, 우리가 예수를 만날 때마다 다시 갱신되는 현실이다. 예수님께서는 “내가 곧 길이요 진리요 생명이라”고 말씀하셨으며, 성도들은 그분을 영접함으로 실존적 구원에 들어간다.

장재형목사는 “하나님이 인간이 되심”이야말로 기독교가 전 세계로 퍼져나갈 수 있었던 가장 핵심 동력 중 하나라고 말한다. 고대 세계에서 종교는 대개 인간이 신을 찾아올라가는 구조였으나, 기독교는 신이 인간을 찾아 내려오신 이야기, 즉 인카네이션을 근간으로 한다. 이 사랑과 겸손, 그리고 하나님의 주권적 구원 계획이 사람들의 마음 깊숙이 울림을 준 것이다.

어둠과 죽음의 세계에서 밝히는 구원의 빛

예수 그리스도의 오심, 곧 성육신 사건이 왜 그렇게도 절실했을까. 그것은 인류가 ‘어둠과 죽음의 세계’에 사로잡혀 있었기 때문이다. 요한복음은 “빛이 어두움에 비치되 어두움이 깨닫지 못하더라”고 선언한다. 여기서 어둠은 단지 빛이 없는 물리적 상태가 아니라, 인간이 죄를 짓고 하나님을 떠나면서 맞닥뜨리는 영적 파멸을 상징한다.

로마서 1장은 사람들이 마음에 하나님 두기를 싫어하여, 우상숭배에 빠지고 온갖 더러운 욕망의 노예가 되었다고 고발한다. 율법이 존재했음에도 불구하고, 그 어떤 의인도 스스로의 힘으로 죄에서 완전히 벗어날 수 없었다. 사망이 왕 노릇 한다는 바울의 표현처럼, 인류는 결국 죽음의 지배 아래 놓였다.

장재형목사는 복음을 “슬픈 이야기”라고 부르기도 한다. 왜냐하면 이 구원의 소식이 오기 전, 인류가 처한 비극과 절망을 먼저 발견해야 하기 때문이다. 복음을 제대로 이해하기 위해선, 우리가 얼마나 깊이 죄에 빠져 있었는지, 또 영생과 영광에서 얼마나 멀어졌는지를 직시할 필요가 있다. 그렇지 않으면 “예수님이 나를 위해 죽으셨다”는 고백도 너무 가볍게 들릴 수 있다.

그러나 어둠이 깊을수록 빛은 더욱 선명하게 빛난다. “빛이 어두움에 비추었다”는 말은, 예수 그리스도의 등장이 단순한 종교 개혁이나 가르침의 수준을 넘어서는 근본적 사건임을 시사한다. 그리스·로마 세계에는 이미 수많은 철학자와 종교 운동가, 제의(祭儀) 체계가 존재했다. 그러나 그 어떤 것도 근본적으로 죄와 죽음의 사슬을 끊지 못했다.

예수님이 베들레헴에 태어나셨을 때, 당대의 정치 권력자인 헤롯은 그의 탄생 소식에 위협을 느끼며 잔혹한 유아 학살을 자행했다. 한편 동방에서 온 박사들은 별의 인도를 받아 아기 예수를 경배하고 예물을 드렸다. 이런 대조적 장면들은, 빛이 세상에 왔으나 세상이 그 빛을 알아보지 못하는 현실과, 빛을 찾아 나서는 겸손한 이방인들의 순례를 함께 보여준다.

장재형목사는 “어둠 속에서 눈을 뜨기 위해서는 새로운 출생, 즉 거듭남이 필요하다”는 복음의 메시지를 재차 강조한다. 요한복음 3장에서 니고데모가 밤중에 예수님을 찾아왔을 때, 예수님은 “사람이 거듭나지 아니하면 하나님 나라를 볼 수 없다”고 하셨다. 이것은 단지 종교적 형식이나 윤리 규범을 바꾸는 것을 넘어서는, 근본적 내면의 혁신을 가리킨다.

이처럼 어둠에 묶여 있던 세상에 예수님은 ‘생명의 빛’으로 오셨다. 요한복음 1장 12절에 등장하는 “영접하는 자들에게는 하나님의 자녀가 되는 권세를 주셨다”는 말씀은 복음의 본질을 집약한다. 죄인이었던 인간이 이제 그리스도를 통해 하나님의 자녀로 양자(養子)가 되고, 다시는 죽음에 얽매이지 않는 자유를 누릴 수 있게 되었다는 선언이다.

어둠과 죽음의 압도적인 힘 앞에서 인류는 무기력했다. 하지만 예수 그리스도의 오심으로 인해, 죽음은 더 이상 최종적 권위를 갖지 못한다. 예수님께서 십자가에서 죽으시고 부활하심으로, 죄와 사망의 문제를 해결하셨기 때문이다. 이런 맥락에서 성육신은 곧 십자가 죽음과 부활로 이어지는 출발점이 된다. 구약의 모든 예언과 그림자가 이 사건을 향해 달려갔으며, 신약의 사도들은 이 사건을 기점으로 교회 공동체를 세워갔다.

성탄절의 신학적 의미와 구원의 희망

이제 우리는 그 구체적인 기념일, 즉 성탄절(크리스마스)의 의미로 시선을 돌릴 수 있다. 장재형목사는 “성육신을 통해 하나님이 우리에게 직접 찾아오셨다”는 사실을 해마다 되새기는 것이 성탄절의 참된 기쁨이라고 말한다. 역사적·교회 전통에서 12월 25일을 예수 탄생일로 기념하게 된 경위는 학계에서도 여러 설이 있지만, 중요한 것은 그날을 통해 하나님의 구원 계획을 다시금 환기한다는 점이다.

세상은 크리스마스를 여러 모습으로 소비한다. 화려한 장식과 음악, 선물과 파티, 연말 분위기가 한껏 고조되는 시기가 되기도 한다. 그런데 복음적 신앙의 관점에서는, 그런 외형적 축제에 앞서 “예수 그리스도께서 사람이 되어 오심”의 의미, “우리를 구원하시기 위한 하나님의 사랑”을 깊이 묵상하는 시간이 되어야 한다.

성탄절은 역사와 신앙의 분기점이다. 예수께서 오시기 전 시대와 오신 후 시대, 곧 BC와 AD가 나뉘었다는 것은 상징적으로나 실제로나 인류사에 중대한 전환이 일어났음을 의미한다. 구약 시대, 즉 메시아 도래 이전에는 율법과 선지자들의 예언이 하나님의 뜻을 비췄으나, 온전한 구원은 아직 오지 않았다. 그러던 중 “말씀이 육신이 되어” 오신 예수님이 인류의 근본 문제인 죄와 사망을 해결하고 영원한 생명의 길을 여셨다는 것이 신약의 증언이다.

복음서가 전하는 예수 탄생 이야기는 그 자체로도 깊은 감동을 준다. 천사가 마리아에게 찾아와 잉태 소식을 전할 때부터 시작해, 요셉이 이 상황을 받아들이기까지의 갈등, 베들레헴까지의 여정, 그리고 마굿간에서 태어난 아기 예수. 이는 인간이 생각하는 ‘존귀한 왕의 탄생’과 거리가 멀다. 더군다나 아기 예수를 죽이려는 헤롯의 폭정 속에서, 마리아와 요셉은 예수를 데리고 애굽으로 피난 가야 했다. 영광스럽기보다는 오히려 비천하고 위험이 도사린 환경이 예수님의 출발이었다.

하지만 그 아기 예수께 동방에서 온 박사들이 예물을 바치고 경배한 사건은, 이분이 비단 유대 민족만의 구주가 아니라 온 세계를 향한 구주라는 사실을 상징적으로 보여준다. 누가복음에 기록된 목자들의 경배 이야기도 동일한 메시지를 전한다. 높은 사람들, 힘 있는 권력자들이 아니라 들판에서 밤을 세우던 목자들에게 천사가 나타나 “오늘 다윗의 동네에 너희를 위하여 구주가 나셨다”고 알려준 것이다. 그 소식은 세상적 서열과 위계를 파괴하는 하나님 나라의 섭리를 드러낸다.

장재형목사는 성탄절을 맞이하며, 현대 신앙인들이 자칫하면 놓칠 수 있는 “성육신의 현실성”을 상기시킨다. 예수님의 탄생은 2천 년 전 일어난 고대 사건이 아니라, 지금도 성령을 통해 우리의 삶에 들어와 구원의 역사를 이어가시는 ‘현재적 사건’이라는 것이다. 매년 크리스마스가 돌아올 때마다, “아, 그렇지. 예수님이 태어나신 날이니 축하해야지” 정도로만 생각한다면, 성육신의 혁명적 메시지를 반의 반도 채 누리지 못한다.

성육신의 신학적 의미는, 태초부터 계셨던 말씀이 우리와 동일한 인간이 되었다는 데 있다. 이는 인간에 대한 하나님의 무조건적 사랑과 은혜, 그리고 희생을 증거한다. 예수님은 이러한 인간의 자리, 고난과 배고픔과 슬픔과 아픔의 자리를 결코 형식적으로만 겪으신 것이 아니라 실제로 감당하셨고, 그를 통해 “우리에게 대제사장으로서의 공감 능력”을 보여주셨다(히브리서 4장 15~16절).

성육신은 또한 “우리를 하나님께로 인도하는 길”이다. 신학자들은 그리스도의 탄생부터 죽음, 부활, 승천, 재림까지 이어지는 대서사를 하나의 통합적 ‘구원 드라마’라고 부른다. 성탄절은 이 거대한 드라마의 서막 혹은 1막에 해당한다. 그 결말은 부활이고, 더 나아가 재림을 통해 완성될 하나님 나라다. 그런데 그 시작점에서 우리는, 예수가 단지 성인군자나 존경받을 만한 교사가 아니라 곧 하나님 자신이라는 사실을 깨닫게 된다. 이는 종교적 감동을 넘어, 존재론적 충격이다.

이로써 성탄절에 우리가 맞닥뜨리는 것은 “하나님이 사람이 되셨다”는 선언, 그리고 그 선언이 함축하는 모든 결과다. 예수님이 오셨기에, 우리는 더 이상 죄와 죽음의 사슬에 영원히 갇힐 필요가 없게 되었다. 예수님이 오셨기에, 인류 역사는 BC와 AD로 구분되는 전혀 다른 국면에 접어들었다. 예수님이 오셨기에, 무기력하고 방황하는 우리 삶에 참된 의미와 방향성이 부여된다.

현대 교회와 성도들은 성탄절을 단지 한 해의 끝자락에 열리는 축제로 소비하기보다, 이 깊은 진리를 자기 인생과 공동체 안에 적용해야 한다고 장재형목사는 역설한다. 성탄의 기쁨은 결국 “나도 빛 가운데로 걸어가겠다”는 고백으로 이어져야 한다. 부와 권력, 세상의 영화로 치장된 장식물을 내려놓고, 예수님이 보여주신 겸손과 섬김의 길을 따라가는 것, 그것이 진정한 의미에서 성육신에 참여하는 삶이기 때문이다.

결론

장재형목사가 전하는 성육신의 메시지는 결국 네 복음서가 펼쳐 보이는 예수 그리스도의 다층적 면모와, 요한복음 1장의 로고스 신학을 통해 예수님의 우주적·선재적 신비를 드러내고, 이어서 “말씀이 육신이 되어 우리 가운데 거하시매”(요 1:14)라는 성육신 진리를 심층적으로 풀어낸다. 이 성육신 사건은 은혜와 진리가 충만한 하나님의 구원 계획이 역사 속에 구체적으로 실현된 결정적 계기가 된다.

어둠과 죄, 죽음의 지배 아래 놓인 인류를 비극으로부터 건져내시려는 하나님의 사랑이, 가장 낮은 자리로 스스로 내려오심으로 완성됐다. 마굿간에서 태어나신 예수님, 동방박사와 목자들에게 경배를 받으신 아기 예수님, 그리고 결국 십자가에 달리셨다가 부활하심으로 사망 권세를 깨뜨리신 주님은, 성육신 신비의 총체이자 기독교 구원의 중심축이다.

성탄절이라는 한 시점에 우리는 그분의 탄생을 기념한다. 하지만 이 기억은 단지 과거 사건을 축하하는 것에 머물지 않는다. 성육신하신 예수님은 지금도 성령으로 우리 가운데 거하시며, 우리의 마음과 생활 속에 빛을 비추신다. 전 세계 교회가 해마다 크리스마스를 준비하고 즐기는 이유는, “하나님이 우리와 함께하심”이라는 임마누엘(Emmanuel) 신앙을 다시 확인하는 데 있다.

복음서별로 예수님을 사자, 송아지, 사람, 독수리에 비유하는 상징은 그분의 다양한 정체성을 조망하는 훌륭한 길잡이다. 이스라엘의 왕으로 오신 예수님은 구약 예언의 성취이며, 종으로 섬기신 예수님은 죄인을 향한 헌신과 희생의 모델이 되신다. 인자 예수님은 가난하고 억눌린 이들과 동행하시는 인류 보편의 구세주로서, 하늘로부터 내려오신 독수리 예수님은 본질적으로 하나님이시라는 절대적 권능을 드러낸다.

장재형목사는 현대인들에게, 성탄절과 복음서 메시지를 좀 더 실존적으로 받아들이라고 제안한다. 이것이 단순한 교회 전통과 연례 행사로 치부되어서는 안 된다. 실은 우리가 매일같이 성육신 신앙을 붙들 때, 교회 공동체 안에서 서로 섬기고 용납하며, 세상 속에서 정의와 사랑을 실천해낼 힘이 샘솟는다. 예수님이 인간의 역사 속으로 들어오셨듯, 우리도 세상의 고통 현장에 들어가 예수님의 마음과 행동을 흠모하며 따르는 것이 성육신 영성의 핵심이기 때문이다.

결국 성육신은 신앙인에게 매 순간 새롭게 다가오는 말씀 사건이다. 2천 년 전 베들레헴 구유에 누이셨던 아기 예수님이, 오늘날 우리의 심령 안에 다시금 탄생하여 빛과 진리를 펼치도록 허락하는 것, 그때 비로소 우리는 복음의 참된 기쁨을 누리게 된다. 그리고 그것이 곧 “성탄의 신학적 의미”가 삶 속에서 구현되는 구원의 희망이다. 하나님이 세상을 이처럼 사랑하사 독생자를 보내셨다는 이 위대한 선언이, 각자의 일상에서 다시 살아 움직일 때, 성육신은 과거 사건을 넘어 생생한 현재적 구원으로서 빛을 발한다.

장재형목사의 메시지는 여기서 멈추지 않는다. 그는 앞으로도 성육신을 비롯해 그리스도의 십자가와 부활, 성령 강림, 재림에 이르는 전체 구원 계획을 깊이 묵상할 것을 권면한다. 신앙은 한두 번의 축제나 절기 행사로 완성되지 않는다. 성육신의 의미를 해마다, 아니 매순간 곱씹고, 그 진리가 자신의 삶을 변화시키도록 허락해야 한다. 그 변화는 자신의 죄를 회개하고, 이웃을 사랑하고, 교회와 세상 속에서 예수님의 말씀을 실천하는 모습으로 나타난다.

이처럼 성육신을 토대로 한 복음 이해는, 시공을 초월하는 하나님의 열심과 사랑을 조명한다. 태초에 말씀이 계셨고, 그 말씀이 하나님과 함께하셨으며, 곧 하나님이셨다는 신앙고백이 우리 안에 선포될 때, 우리는 종교적 의무감을 넘어 기쁨과 자유로 하나님을 예배하게 된다. 어둠과 죽음에서 해방되어 빛과 생명으로 걸어갈 수 있게 된다는 사실이 성탄이 주는 궁극적 희망이며, 이 복음이 오늘도 지구 곳곳에서 수많은 사람의 삶을 변화시키는 동력이 된다.

결국 장재형목사가 전달하고자 하는 핵심은, “예수 그리스도의 성육신은 모든 인간의 구원을 향한 하나님의 사랑을 가장 구체적이고 역사적으로 보여준 결정적 사건”이라는 것이다. 이 사건 안에 담긴 은혜와 진리를 깨달으면, 우리는 어떤 상황에서도 흔들리지 않는 소망을 품게 된다. 인간의 이성적 한계를 뛰어넘어 주시는 하나님의 계시, 그리고 죄와 사망에 빠진 인류를 향한 거룩한 구출 작전이, 태초부터 준비되고 이제는 예수님의 탄생과 죽음, 부활로 완성되어가고 있다.

이 메시지를 붙들고 성탄절을 맞이한다면, 단순히 추운 겨울날의 반짝이는 장식과 산타클로스, 선물을 교환하는 행사 이상의 뜨거운 감격을 맛볼 수 있다. 교회 안에서, 가정에서, 그리고 개인의 영혼 깊은 곳에서 ‘말씀이 육신이 되어 우리 가운데 거하신 사건’이 새롭게 빛날 때, 우리는 그 은혜의 빛으로 이웃을 바라보고 세상을 섬기게 된다. 성육신은 역사적 과거로만 존재하지 않는다. 오늘 우리의 눈앞에서, 우리 마음 안에서, 그리고 이웃을 향한 사랑으로 끊임없이 다시 살아나는 신비다.
장재형목사의 성육신 메시지는 네 복음서가 제시하는 예수님의 왕적·종적·인적·신적 면모를 하나의 종합적 서사로 엮고, 요한복음 1장이 보여주는 로고스 개념을 통로 삼아, 예수 그리스도가 곧 창조주이시며 우리와 ‘함께 계시는(임마누엘)’ 하나님이심을 각인한다. 죄와 죽음이 가득한 세상에 빛으로 오신 예수님, 그리고 그 빛을 영접하는 이들에게 열리는 새로운 길(하나님의 자녀가 되는 권세)은 성탄절마다 다시 확증되는 위대한 선물이다.

이 모든 내용을 결론적으로 정리하자면, 성육신은 기독교 신앙의 가장 근본이자, 예수 그리스도의 신비로운 정체성을 가장 극명하게 드러내는 사건이다. 그리스도의 탄생을 축하하는 성탄절은, 온 세상이 하나님을 등지고 있는 것처럼 보이는 현실에서도, 여전히 하나님의 구원은 살아 있고 진행 중임을 알리는 고귀한 증표다. 네 복음서의 상징(사자, 송아지, 사람, 독수리)은 우리에게 예수님을 여러 각도에서 묵상하게 하며, 로고스의 개념을 바탕으로 한 요한복음의 선언은 예수님이 단지 위대한 스승이나 도덕 교사 정도가 아니라, 곧 태초부터 함께하신 하나님이심을 웅변한다.

이 성육신은 인간이 결코 갈 수 없었던 ‘하늘로부터의 길’을 열어주신 사건이다. 하나님이 인간이 되심으로, 우리는 하나님께 갈 수 있게 되었다. 은혜와 진리의 충만을 베푸시는 예수님 앞에서, 우리는 회개와 감사로 나아가며, 삶의 우선순위를 재정립하고, 사랑과 섬김의 행위로 그분의 뜻에 동참한다. 그러므로 매해 돌아오는 성탄절은 과거를 기념하는 의식 이상의 의미를 가지며, 신앙의 근본을 다시 확인하고 삶을 변화시키는 계기가 되는 것이다.

결국, 장재형목사가 전달하고자 하는 핵심적인 가르침은, 이처럼 성육신을 통해 열리는 새로운 구원의 가능성이 단지 1세기 팔레스타인 지역에 국한되지 않는다는 사실이다. 로마 제국과 그레꼬-로마 철학권, 북아프리카, 오늘날 아시아와 아메리카, 아프리카 대륙, 유럽 전역에까지 복음이 뻗어나간 것은, 이 진리가 보편적으로 모든 인간의 심령을 울리는 힘을 지녔기 때문이다. 말씀이 육신이 되어 우리 가운데 거하셨고, 우리는 그 영광을 보았다. 그 영광이란 곧 아버지의 독생자의 영광이며, 은혜와 진리가 충만한 광채다.

그 광채를 외면하느냐, 받아들이느냐에 따라 인생은 결정적으로 갈린다. 누구든지 영접하는 자는 하나님의 자녀가 되는 권세, 즉 인간으로서는 가질 수 없는 신적 생명에 참여하는 권능을 얻게 된다. 이것이 어둠과 죽음의 세계를 밝히는 구원의 빛이다. 성육신은 그래서 역사상 가장 위대한 희망의 시작이라고 할 수 있으며, 성탄절은 그러한 사건을 매년 기억하고 기뻐하는 날이다.

네 복음서의 이미지가 제각기 다른 색채로 예수님을 그려낸다 할지라도, 그들이 전하는 복음의 심장부에는 “하나님이 사람이 되셨다”는 공통된 메시지가 맥동하고 있다. 이것은 교리나 예식만으로는 결코 온전히 해석할 수 없는, 거대하고도 신비로운 구원의 행위다. 21세기 현대인에게도 여전히 유효하며, 내면의 공허와 절망을 극복하는 길을 제시한다.

장재형목사의 말에 따르면, 성육신은 결코 한 번 읽고 넘어가는 이야기가 아니다. 전 생애에 걸쳐 묵상해야 할 보물창고이며, 오직 믿음을 통해 지속적으로 새 빛을 얻게 되는 샘물이다. 성탄절을 통해, 그리고 네 복음서를 통해, 우리가 예수님을 왕으로도, 종으로도, 사람으로도, 신으로도 만날 수 있다면, 그것이야말로 완전한 복음 이해에 한 걸음 가까워졌다는 증거일 것이다.

이것이 곧 태초부터 계획된 하나님의 구원 시나리오가 예수님의 탄생, 죽음, 부활, 승천, 그리고 성령 강림으로 이어진다는 대서사의 정점 중 하나이고, 성탄절은 그 현현(顯現)의 문턱에서 모두를 초대하는 특별한 축제다. 구유에 누이신 아기 예수를 바라보며, 우리는 어둠을 밝히는 하늘의 빛, 만왕의 왕이자 종으로 임하신 주, 모든 인류의 인자이자 창조주이신 하나님을 동시에 목격하게 된다. 그리고 그 만남이 “성육신의 경이로움”으로 우리 안에 자리 잡을 때, 비로소 성탄절은 온전한 의미를 발한다.

결론적으로, 장재형목사가 선포하는 성육신 메시지는 네 복음서가 제시하는 복합적 예수상을 통해 지금의 신앙인과 교회, 그리고 세상을 향해 이렇게 말한다. “말씀이 육신이 되어 우리와 함께 거하셨다. 이제 너희는 그 빛을 영접하여 하나님의 자녀로 살아가라.” 이것이 성탄의 본질적 메시지이자, 모든 시공을 초월해 우리를 향해 계속 울려 퍼지는 복음의 초청이다. 그리고 그 초청에 응답하는 삶이야말로, 성육신의 충만한 은혜와 진리가 우리 안에서 꽃피우는 길임을 강조하고 있다

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장재형목사 설립 올리벳대학교 지역 라디오 방송국 연례 모금 행사 참여

올리벳대학교

한인 신학자인 장재형목사(영어명: 장다윗, 데이비드 장)가 설립한 올리벳대학교의 대표자들과 신학대학원 학생들이 최근 캘리포니아 안자(Anza) 지역 방송국 KOYT 97.1 FM이 주최한 연례 모금 행사에 참여했습니다.

행사 주제와 주요 활동

이번 행사는 ‘버블 & BBQ’를 주제로 열렸으며, 지역 주민들이 다수 참여해 활기를 더했습니다. KOYT 라디오 방송국의 프로그램 디렉터 에린 로스코(Erinne Roscoe)가 행사의 진행을 맡았으며, 라이브 음악 공연, 침묵 경매, 경품 추첨, 그리고 Island Fusion BBQ에서 제공하는 음식이 참석자들에게 큰 호응을 얻었습니다.

지역사회와의 교류

올리벳대학교 측은 “이번 행사를 통해 지역의 주요 인사들, 커뮤니티 리더들, 안자 지역의 오랜 거주민과 새로 이사 온 주민들, 그리고 농업 분야 협력 가능성을 지닌 파트너들과 교류할 수 있어 뜻깊었다”고 밝혔습니다.

행사에 참석한 이들은 과거 올리벳대학교에서 열린 투어와 오픈 하우스 등 다양한 행사를 떠올리며 긍정적인 평가를 나눴습니다. 또한 올리벳대학교는 이번 기회를 통해 새로운 교직원들을 지역사회에 소개하며, 안자 지역의 새로운 이웃으로서 주민들에게 따뜻한 인사를 전했습니다.

지속적인 협력과 우정

올리벳대학교는 “지역사회를 위한 봉사와 행사 참여를 통해 형성된 소중한 관계들에 감사드린다”며, “앞으로도 안자 지역사회와 더욱 깊고 풍성한 협력과 교류를 이어가길 기대한다”고 덧붙였습니다.

올리벳대학교의 역사와 비전

한편 올리벳대학교는 장재형 목사가 설립한 올리벳신학교(Olivet Theological College and Seminary)에서 시작하여 2004년 3월 3일 미국 정부에 정식 등록되었습니다. 이후 다양한 분야에서 두각을 나타내며 미국 교육 평가 순위에서도 상위권에 자리잡았으며, 현재 조나단 박 박사가 제6대 총장으로 학교를 이끌고 있습니다.

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